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【暴食領平定編 東】旅支度

 帝城を後にすると、昼前の陽射しが石畳を照らしていた。


 空は雲一つない快晴。


 東へ目を向ければ、遥か彼方に白く霞んだ山々がかすかに見える。


 あそこが白哭峰セレスティア。


 これから向かう場所だ。


 マモンは準備期間を二日与えてくれた。


 急げば今日にでも出発できるが、雪山へ挑む以上、中途半端な準備は命取りになる。


 まずは帝城の物資庫へ向かった。


 石造りの大きな倉庫には、武器や防具だけでなく、遠征用の物資が整然と並べられている。


 中へ入ると、一人の管理官が帳簿から顔を上げた。


「灰崎零殿ですね。」


「はい。」


「マモン様より話は伺っております。」


 管理官は一枚の許可証を確認すると、静かに頷いた。


「必要な物資は自由にお持ちください。ただし、武器庫のみ管理責任者の立ち会いが必要となります。」


「ありがとうございます。」


 雪山へ向かう以上、最優先は寒さへの対策だ。


 厚手の外套。


 防寒用の手袋。


 毛皮の敷物。


 折り畳み式の簡易テント。


 予備の火打石。


 乾燥薪を圧縮した携帯燃料。


 どれも重い。


 だが、命を守るためには惜しめない。


 続いて保存食。


 干し肉。


 乾燥果実。


 硬い黒パン。


 塩漬けにされた魚。


 一週間以上は山中に留まる可能性を考え、多めに袋へ詰めていく。


 最後に回復薬を確認する。


 赤色の小瓶が三本。


 青色が二本。


 解毒薬が一本。


 雪山では毒よりも凍傷や落下の方が怖い。


 それでも何が起きるか分からない以上、備えは必要だった。


「以上ですね。」


 管理官が荷物を確認する。


「十分だと思います。」


「……少し多い気もしますけど。」


「帰りに余るくらいが丁度いいですよ。」


 穏やかな口調だった。


「遠征は、備え過ぎて困ることはありません。」


「そうですね。」


 荷物を背負う。


 ずしり、と肩へ重みが乗る。


 思わず苦笑した。


「雪山へ行く前から疲れそうです。」


 管理官も小さく笑う。


「お気を付けて。」


「ありがとうございます。」


 帝城を出ると、そのまま市場へ向かった。


 街は昼時ということもあり、多くの人で賑わっている。


 露店から漂う焼き肉の香り。


 果物を積み上げる商人。


 客引きの声。


 どれも活気に満ちていた。


 保存食は揃えたが、旅の途中で食べる嗜好品くらいは買っておこう。


 干し果実を追加で一袋。


 木の実を炒った携帯食。


 水筒に入れる香草茶。


 買い物を終え、代金を支払おうとした時だった。


「あっ!」


 元気な声が響く。


「灰崎さん!」


 振り返ると、小さな男の子が駆け寄ってきた。


 その後ろから母親らしき女性が慌てて追い掛けてくる。


「こら! 急に走っちゃ駄目でしょう!」


「でも本物だよ!」


 男の子は目を輝かせながら僕を見上げた。


「本当に灰崎さん?」


「うん。」


「すごいや!」


 その笑顔に思わず頬が緩む。


「お兄ちゃん、この前悪い人をやっつけたんでしょ!」


「……みんなが頑張った結果だよ。」


「でも一番強いって聞いた!」


「そんなことないよ。」


 苦笑しながら頭を撫でる。


 柔らかな髪だった。


「ありがとう!」


 男の子は嬉しそうに笑う。


 母親は深々と頭を下げた。


「命を救っていただき、本当にありがとうございました。」


「僕一人の力じゃありません。」


「それでも……ありがとうございました。」


 そう言って親子は人混みの中へ消えていく。


 少しだけ照れくさい。


 英雄なんて呼ばれる柄じゃない。


 僕はただ、生きるために戦ってきただけだ。


 それでも誰かの日常が戻ったのなら、それだけで十分だった。


 市場を歩いていると、一軒の装飾品店が目に入る。


 木製の棚には首飾りや腕輪、小さな宝石細工が並べられていた。


 特別な用事はない。


 それでも何となく足が止まる。


「旅のお守りはいかがですか?」


 店主が声を掛けてくる。


「雪山へ向かわれる方には、こちらの水晶細工が人気ですよ。」


 透明な結晶が陽の光を受け、静かに輝いていた。


「……綺麗ですね。」


「えぇ。」


 店主は微笑む。


「身を守ってくれると言われています。」


 そういう類の話は嫌いじゃない。


 ただ、本当に守ってくれるのは、自分自身と仲間だけだ。


「今日は見るだけにしておきます。」


「またお立ち寄りください。」


 軽く会釈し、店を後にした。


 夕方になる頃には、荷物もほとんど揃っていた。


 宿へ戻ると、一つずつ机へ並べる。


 保存食。


 薬。


 毛布。


 火打石。


 予備の衣服。


 不足はない。


 最後に、マモンから渡された地図を広げる。


 白哭峰セレスティアまで、およそ七日。


 途中には街も村もほとんど存在しない。


 補給は期待できないだろう。


「……長旅になりそうだ。」


 独り言が漏れる。


 荷物をまとめ終える頃には、窓の外は茜色に染まっていた。


 夕焼けに照らされたラクスウェルは、昼間とはまた違う表情を見せている。


 酒場から漏れる笑い声。


 家路を急ぐ人々。


 煙突から立ち上る夕餉の煙。


 平和な景色だった。


 窓を開ける。


 少し冷たい風が部屋へ吹き込んできた。


 東を見る。


 遠く、空と山の境界が白く霞んでいる。


 あの先に、ヴィオラ・クラウソラスがいる。


 父と同じ道を歩んでいるのか。


 それとも、父とは違う何かを抱えているのか。


 まだ分からない。


 分かるのは、会ってみなければ何も始まらないということだけだ。


 その時だった。


「──零。」


 不意に、誰かが僕の名前を呼んだ。


 聞き覚えのある声。


 優しく、それでいてどこか懐かしい響きだった。


「……?」


 振り返る。


 部屋には誰もいない。


 廊下を見ても、人影はなかった。


 気のせいだったのだろうか。


 しばらく耳を澄ませてみる。


 だが、それ以上声が聞こえることはなかった。


「……疲れてるのかな。」


 小さく呟き、窓を閉める。


 明日も準備は残っている。


 今日はもう休もう。


 そう思い、寝台へ腰を下ろした。

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