【暴食領平定編 東】東へ
ラクスウェルの朝は、穏やかだった。
宿の窓から差し込む朝日が部屋を照らし、通りからは商人たちの威勢のいい声が聞こえてくる。
嫉妬帝との戦いから数日。
街は以前の賑わいを取り戻しつつあった。
窓を開けると、冷たい朝の空気が頬を撫でる。
市場では野菜を並べる者、焼き立てのパンを売る者、荷馬車を引く商人。
その誰もが忙しそうに動いていた。
(……平和、か。)
ほんの少し前まで、この街は戦いの緊張に包まれていた。
人々の感情も恐怖や不安の色ばかりだった。
今は違う。
笑顔がある。
怒鳴り声さえ、どこか活気のあるものに聞こえた。
もちろん、すべてが終わったわけじゃない。
七帝はまだ残っている。
世界の裏では、何かが静かに動き続けている。
それでも、この時間くらいは平穏を噛み締めてもいいだろう。
身支度を整え、一階へ降りる。
「おはようございます、零さん。」
宿の主人が穏やかに笑う。
「おはようございます。」
「朝食、出来てますよ。」
「ありがとうございます。」
席へ着くと、温かなスープと焼き立てのパン、それに目玉焼きが運ばれてきた。
湯気の立つスープを一口飲む。
優しい味だった。
異世界へ来たばかりの頃は、毎日生きることだけで精一杯だった。
魂術師という外れ職。
誰からも期待されず、何をすればいいのかも分からなかった。
それでも今は違う。
仲間がいて、目指す場所がある。
そんな小さな変化を思い返していると、不意に宿の扉が静かに開いた。
騒がしく開け放つわけでもない。
ただ音もなく、人影が店内へ滑り込んでくる。
全身を黒いローブで覆った男だった。
顔は深く被ったフードに隠れ、表情は見えない。
胸元には、小さな金色の紋章が刺繍されている。
強欲帝直属の諜報員。
帝城で何度か見掛けたことがある。
男は周囲へ一瞥を向けると、真っ直ぐ僕の前まで歩いてきた。
「灰崎零殿。」
淡々とした声だった。
感情の起伏がほとんど感じられない。
「強欲帝マモン様がお呼びです。」
短く、それだけ告げる。
「何かありましたか。」
「東方に関する案件です。」
必要最低限の返答。
それ以上を語るつもりはないらしい。
「急ぎですか。」
「はい。」
男は一礼する。
「馬車を用意しております。」
「……分かりました。」
朝食を急いで食べ終え、代金を支払う。
宿を出ると、石畳の道には一台の黒い馬車が停められていた。
諜報員は御者席へ座ると、無言で手綱を引く。
車輪が静かに回り始めた。
街を進む馬車の窓から外を見る。
露店を覗く子ども。
井戸端で談笑する女性たち。
鍛冶屋から響く金槌の音。
どれも平和そのものだった。
だからこそ、帝からの呼び出しが少しだけ引っ掛かる。
東方。
あまり聞き慣れない言葉だった。
しばらくして馬車は帝城へ到着する。
巨大な門を潜り、城内へ。
諜報員は案内だけを済ませると、何も言わず姿を消した。
玉座の間の扉が開く。
「来たか。」
聞き慣れた声。
玉座に腰掛けるマモンが、こちらを見る。
その表情はいつも通り落ち着いていた。
「呼ばれたので。」
「あぁ。」
マモンは立ち上がると、一枚の地図を机へ広げる。
暴食帝領全域が描かれた地図だった。
「今日は依頼だ。」
指先が東側をなぞる。
そこには真っ白な山脈が描かれていた。
「ここは。」
「霊峰――白哭峰セレスティア。」
初めて聞く地名だった。
「暴食帝領の最東端に位置する霊峰だ。」
地図を見つめる。
かなり広い。
雪山というより、一つの国ほどの広さがあるように見えた。
「昔から人の立ち入りを拒み続けてきた場所だ。」
「何がいるんですか。」
「雪月鬼。」
聞き慣れない種族名。
「魔物……ですか。」
「いや。」
マモンは首を横へ振る。
「魔物とも人とも言い難い種族だ。」
その答えは曖昧だった。
「高い知性を持ち、一つの文化を築いている。」
「交渉は。」
「出来ん。」
即答だった。
「現在、雪月鬼を束ねる者がいる。」
そこで、マモンの感情がわずかに揺れる。
警戒。
それだけで十分伝わった。
「鉄拳の聖女。」
短い二つ名。
「本名はヴィオラ・クラウソラス。」
その名を聞いた瞬間、思わず目を見開く。
「……クラウソラス。」
「あぁ。」
魂術研究に取り憑かれた聖職者。
そして僕たちが討った男。
「娘だ。」
「そうですか。」
「父ほど狂ってはいない。」
マモンは腕を組む。
「だが、強い。」
短い言葉だった。
しかし、その一言だけで十分だった。
「雪月鬼をまとめ上げ、白哭峰を支配している。」
「討伐ですか。」
「違う。」
マモンは静かに首を振る。
「出来る限り、生かして連れて来い。」
少し意外だった。
「仲間に?」
「あぁ。」
マモンは窓の外を見る。
「近いうち、この世界は大きく動く。」
その意味は聞かなくても分かった。
戦争。
それも、これまでとは比べ物にならない規模のものだ。
「雪月鬼の戦力は必要になる。」
世界戦争。
その言葉こそ口にしなかったが、空気だけで十分伝わる。
「……分かりました。」
断る理由はなかった。
マモンは小さく頷く。
「準備期間は二日。」
「ありがとうございます。」
「必要な装備や物資は好きに持って行け。」
話は終わりだった。
一礼し、玉座の間を後にする。
帝城を出ると、空は雲一つない青空だった。
東へ目を向ける。
遥か彼方。
白く霞んだ山脈が、ぼんやりと空へ溶け込んでいる。
(白哭峰セレスティア。)
そこにはクラウソラスの娘がいる。
父と同じ道を歩んでいるのか。
それとも、違う道を選んだのか。
今はまだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
この旅は、今までとは違うものになる。
そんな予感だけが、静かに胸の奥へ残っていた。




