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【怠惰の章】怠惰の宴

 ユグドラシルの鼓動が、森へ戻ってから三日。


 あれほど続いていた地鳴りは嘘のように止み、大森林には静かな風が吹いていた。


 崩れかけていた地盤は巨大な根によって支え直され、裂けていた大地には再び草花が芽吹いている。


 見上げれば、木々の葉は瑞々しい緑を取り戻し、小鳥たちが枝から枝へ飛び回っていた。


 まるで森そのものが深く息を吸い込み、生き返ったようだった。


「本当に……戻ったんだな。」


 灰崎は空を見上げ、小さく呟く。


 魂視に映る森の色も以前とは違っていた。


 生命は穏やかに循環し、それぞれが互いを支え合いながら流れている。


 もう飢えの色は見えない。


 ユグドラシルは確かに救われたのだ。


「もちろんだ。」


 隣を歩くアルヴ・レガリアが肩を竦める。


「何千年も、この森はそうやって生きてきた。」


「少しくらい転んでも、また立ち上がるさ。」


 その口調はいつも通り飄々としている。


 しかし、その表情にはどこか安堵の色が浮かんでいた。


 彼自身も、この数日ようやく肩の荷が下りたのだろう。


 その時だった。


「灰崎さーん!」


 遠くから村人の声が飛ぶ。


「早く来てくれ!」


「宴の準備が終わったぞー!」


「宴?」


 灰崎が首を傾げると、アルヴが吹き出した。


「当たり前だろ。」


「森が助かったんだ。」


「祝わない理由がない。」


 村の広場へ向かうと、そこには想像以上の光景が広がっていた。


 巨大な焚き火を囲むように、長机が何列も並べられている。


 その上には所狭しと料理が並んでいた。


 香ばしく焼き上げられた巨大な魔物肉。


 山菜をふんだんに使った煮込み料理。


 川魚を丸ごと香草で包み焼きにした一皿。


 香辛料が強く香る肉料理。


 色鮮やかな果実を使った甘味。


 細長い麺料理。


 丸い焼き立てのパン。


 見たこともない香草茶まで湯気を立てている。


「……すごいな。」


 灰崎は思わず目を丸くした。


「これ全部、この村で?」


「全部じゃないぞ!」


 一人の村人が笑いながら肉を切り分ける。


「俺は東の出身!」


「私は北!」


「俺は西方だ!」


「私は海沿いの町!」


 あちこちから笑い声が飛ぶ。


 料理だけではない。


 話し方も、服装も、使っている調味料も違う。


 それぞれ違う土地で生きてきた人間たち。


 事情は違えど、この村へ流れ着いた者たちだった。


「ここは追放者の村だからな。」


 アルヴが静かに言う。


「だからこそ、いろんな故郷の味が集まる。」


「食都みたいに一流の料理人はいない。」


「でも――」


 そこへ白髪交じりの老人が笑いながら口を挟んだ。


「食都には負けねぇぞ!」


「そうそう!」


「腕じゃ負けても、想いじゃ負けん!」


「故郷を思い出す味なら世界一だ!」


 一斉に笑い声が上がる。


 灰崎も思わず笑ってしまった。


「なるほど。」


「確かに、食都とは違うな。」


 食都は料理を極めた都。


 ここは、人が生きてきた証が集まる村。


 同じ「食」でも、その意味はまるで違っていた。


「ほら兄ちゃん!」


「冷める前に食え!」


 巨大な皿を無理やり手渡される。


 焼きたての肉から脂が滴り落ち、香辛料の香りが鼻をくすぐった。


「いただきます。」


 一口。


 肉汁が口いっぱいに広がる。


「……うまい。」


「だろ!」


 歓声が上がる。


 その隣ではサミエムも静かに席へ座っていた。


 表情は変わらない。


 淡々と料理を口へ運び、静かに分析する。


「火入れ良好。」


「保存効率、中程度。」


「栄養価、高。」


「香辛料による殺菌効果を確認。」


「……。」


 村人たちは苦笑する。


「相変わらず面白い兄ちゃんだな。」


 サミエムは反応しない。


 ただ機械のように料理を口へ運ぶだけだった。


 灰崎はそんな親友を横目で見つめ、小さく息を吐く。


(……まだ、戻らないか。)


 胸の奥が少しだけ痛む。


 それでも今は、この束の間の平穏を壊したくはなかった。


 夜が更けるにつれ、焚き火の炎はゆっくりと空へ揺れ始める。


 酒を飲み交わす者。


 歌を歌う者。


 踊り始める子どもたち。


 笑い声が森中へ響き渡る。


 その光景を眺めながら、灰崎は静かに杯を置いた。


 ――今しかない。


 そう思った。


 ゆっくりと立ち上がり、焚き火の向こう側で穏やかに酒を飲むアルヴへ歩み寄る。


「アルヴ。」


「ん?」


 アルヴは杯を傾けたまま視線だけを向ける。


 灰崎は焚き火の炎を見つめ、一度深く息を吸った。


「……一つ、頼みがある。」


 賑やかな宴の喧騒とは対照的に、その一言だけが静かに夜の空気へ溶けていった。


 宴は終わりへ近付いていた。


 広場の喧騒は少しずつ静まり、賑やかだった笑い声も今では遠くから微かに聞こえる程度になっている。


 焚き火だけが、静かに夜を照らしていた。


 パチリ、と薪が爆ぜる音が響く。


 灰崎はその炎を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「……一つ、頼みがある。」


 向かい側では、アルヴ・レガリアが木の杯を片手に小さく笑う。


「そんな改まってどうした。」


「酒でも注いでほしいのか?」


「違う。」


 灰崎は首を横へ振るる。


「真面目な話だ。」


 その一言だけで、アルヴの表情も変わった。


 杯を静かに地面へ置き、焚き火越しに灰崎を見る。


「聞こう。」


 しばらく沈黙が流れる。


 灰崎は何度も頭の中で言葉を選び直した。


 どこから話すべきか。


 どう伝えればいいのか。


 そして、小さく息を吐いた。


「これから先――帝王同士は争う。」


 アルヴは何も言わない。


「理由は違っても。」


「思想が違っても。」


「必ずぶつかる。」


 焚き火の炎が揺れる。


 その光が灰崎の横顔を照らした。


「誰かが勝つ。」


「誰かが負ける。」


「その裏で、大勢が死ぬ。」


「それが、この世界の流れなんだろう。」


 アルヴは静かに頷く。


「否定はできないな。」


「俺も帝王だ。」


「その未来は嫌というほど想像できる。」


 灰崎は拳を握る。


「でも。」


「だからって、それを受け入れる気はない。」


 炎の向こうでアルヴの眉が僅かに動いた。


「決まっている未来なら。」


「俺は、その未来に抗いたい。」


 灰崎の声は決して大きくない。


 それでも、その言葉には迷いがなかった。


「誰かが死んでから動くんじゃ遅い。」


「始まる前に止めたい。」


「誰も失わずに済む道があるなら、俺は最後まで探す。」


 アルヴは焚き火を見つめたまま、小さく笑う。


「……難しい道を選ぶな。」


「分かってる。」


「でも、それしか選べない。」


 灰崎は真っ直ぐアルヴを見る。


「アルヴ。」


「力を貸してくれ。」


「ユグドラシルも。」


「あんたも。」


「一緒に来てほしい。」


 夜風が吹く。


 火の粉が空へ舞い上がった。


 しかし、アルヴは返事をしない。


 ただ静かに立ち上がり、村を見渡した。


 宴の後片付けをする大人たち。


 眠ってしまった子どもを背負って歩く母親。


 笑いながら食器を運ぶ若者たち。


 少し離れた場所では、ユグドラシルの巨大な根が月明かりを受けながら穏やかに脈打っている。


 その景色を眺めながら、アルヴはぽつりと呟いた。


「……怖いんだ。」


 灰崎は何も言わず、その続きを待つ。


「やっと守れた場所なんだ。」


 アルヴの目は村へ向けられたままだった。


「ここにいる連中は、みんな何かを失って流れ着いた。」


「故郷だったり。」


「家族だったり。」


「夢だったり。」


「それでも、ようやく笑えるようになった。」


 少しだけ口元が緩む。


「ユグドラシルもそうだ。」


「あいつはこの森そのものだ。」


「森が傷付けば苦しむ。」


「村が傷付けば悲しむ。」


「だから俺にとっては――」


 一度だけ言葉が止まる。


「家族なんだ。」


 その一言には、飾り気がなかった。


 ただ、それだけが真実だった。


「お前が向かう先は死地だ。」


「帝王同士が本気でぶつかる戦場だ。」


「そんな場所へ、俺の都合で家族を連れて行く。」


 アルヴは苦く笑う。


「正直……怖い。」


 灰崎はゆっくり立ち上がる。


「その気持ちは分かる。」


「俺だって仲間を危険な場所へ連れて行きたくはない。」


「でも。」


「だからこそ、一緒に生きて帰る。」


「それが俺の答えだ。」


 再び静寂が訪れる。


 焚き火だけが静かに揺れた。


 その時だった。


 ――グルルルル……。


 低い唸り声が夜の森から響く。


 二人が振り向く。


 木々の奥から姿を現したのは、害獣王だった。


 ゆっくりと歩き、アルヴの隣まで来る。


 その後ろから、夜空を焦がすような炎を纏った炎天虎が姿を見せた。


 さらに大地を揺らしながらロックガルーダが舞い降り、白い蒸気を漂わせたスチームタイラントスネークが静かに身を横たえる。


 四体は何も言わない。


 ただ、アルヴの前へ並んだ。


 その瞳は、真っ直ぐ彼を見つめていた。


 アルヴは思わず苦笑する。


「……そうか。」


 大きく息を吐く。


「俺だけが勝手に守ろうとしてたんだな。」


 炎天虎が短く咆哮を上げる。


 害獣王も静かに頷くように鼻を鳴らした。


 命令を待っているのではない。


 彼ら自身が、答えを決めていた。


 アルヴはゆっくりと空を見上げる。


 満天の星が広がっていた。


「……分かった。」


 静かな声だった。


「運命に抗うんだろ。」


 灰崎は頷く。


「ああ。」


 アルヴは笑った。


「なら。」


「俺も付き合おう。」

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