【怠惰の章】原初の雫
「まずい!」
灰崎は地を蹴った。
目の前で、黄金色の小さな光がふわりと浮かび上がる。
《始原粒子》。
世界最初の命。
その姿は手のひらほどしかない。
植物にも見える。
動物にも見える。
透き通る黄金色の身体は、葉のようにも羽のようにも揺らめき、背中から零れる粒子は暗い空洞を淡く照らしていた。
だが。
その小さな命へ向かって、無数の根が殺到する。
ズズズズズズッ!!
地面が盛り上がる。
壁を突き破り、天井を砕き、ユグドラシル自身の根が一直線に《プロト・アニマ》へ伸びていく。
「来るぞ!」
浮雲が叫んだ。
絶界盾を前へ構える。
根が激突する。
――ドォォォォン!!
盾が受け止める。
だが、それでも押し返される。
「くっ……!」
浮雲の足が地面へ沈む。
相手は敵ではない。
世界そのもの。
飢えに狂ったユグドラシルの本能だった。
「灰崎!」
「今しかない!」
「ああ!」
灰崎は盾の脇を駆け抜ける。
サミエムも無言で追従する。
根が何本も飛び出した。
サミエムの剣が閃く。
最短。
最速。
必要最低限だけを断つ。
一本。
二本。
三本。
道だけを作る。
灰崎は《プロト・アニマ》へ手を伸ばした。
「大丈夫だ!」
「俺たちは敵じゃない!」
しかし。
《プロト・アニマ》は怯えたように震え、さらに奥へ逃げる。
「逃げた!」
「当然だ。」
浮雲が押し返されながら叫ぶ。
「何百年も狙われ続けた命だ!」
「簡単に信じられる訳がない!」
灰崎は舌打ちした。
追えば追うほど逃げる。
捕まえれば壊してしまうかもしれない。
「どうする……。」
その時だった。
魂視。
灰崎の視界が黄金色へ染まる。
《プロト・アニマ》の魂。
いや。
魂になる前の光。
そこには恐怖しかなかった。
『食べられる。』
『また奪われる。』
『怖い。』
そんな感情だけが溢れている。
灰崎は立ち止まった。
「追うな。」
サミエムが灰崎を見る。
「非合理。」
「違う。」
灰崎は剣を納めた。
ゆっくりと両手を見せる。
「俺は何もしない。」
《プロト・アニマ》は警戒したまま震えている。
「お前を傷付けない。」
「俺たちは……。」
そこで灰崎は少し笑った。
「ユグドラシルを助けたい。」
《プロト・アニマ》が首を傾げる。
言葉は通じていない。
だが。
魂は嘘を吐けない。
灰崎の魂視を通して、その想いは確かに伝わっていた。
黄金色の小さな命が、一歩だけ近付く。
その瞬間。
ズゴォォォォォッ!!
空洞全体を突き破るほどの巨大な根が、真上から落ちてきた。
「灰崎ッ!!」
浮雲の叫び。
サミエムが即座に灰崎を突き飛ばす。
轟音。
土煙。
根は《プロト・アニマ》を包み込もうと、大きく口を開いていた――。
「灰崎ッ!!」
浮雲の叫びが空洞を震わせた。
轟音と共に、天井を突き破った巨大な根が地面へ突き刺さる。
サミエムに突き飛ばされた灰崎は、岩肌を転がりながら何とか受け身を取った。
土煙が視界を覆う。
息を吸うだけで喉が焼ける。
「……無事か。」
サミエムが淡々と手を差し伸べる。
「ああ、助かった。」
その手を掴み立ち上がった灰崎は、すぐに前を見た。
「プロト・アニマは!」
煙が晴れる。
そこには、黄金色の小さな光が震えながら浮かんでいた。
だが、その周囲を無数の根が取り囲んでいる。
まるで獲物を追い詰める蛇の群れ。
逃げ場は、ない。
「まずい……!」
灰崎が駆け出そうとした瞬間、浮雲が腕を掴んだ。
「待て。」
「でも!」
「今飛び込めば、お前ごと飲み込まれる。」
浮雲の額には脂汗が滲んでいた。
絶界盾を構え続けているにもかかわらず、ユグドラシルの根を押し返すので精一杯だ。
相手は敵ではない。
生きようと足掻く世界そのもの。
だからこそ、その力は底知れない。
ゴゴゴゴゴ……。
空洞全体が軋む。
灰崎は魂視を開いた。
そして、息を呑む。
「……そういうことか。」
見えた。
ユグドラシルは《プロト・アニマ》を食べようとしているのではない。
必死に求めている。
飢えた子どもが親を探すように。
枯れた大樹が雨を願うように。
ただ、生きるために。
「浮雲!」
「分かってる。」
二人は同時に答えた。
「悪くない。」
「悪い奴なんて、一人もいない。」
その言葉に、サミエムだけが静かに首を傾げる。
「ならば、なぜ争う。」
感情のない問い。
灰崎は苦笑した。
「生きたいからだ。」
「……。」
「それだけで十分、争いは起きる。」
サミエムは何も返さなかった。
ただ、その言葉を演算するように黙り込む。
その僅かな沈黙を見て、灰崎は胸の奥で安堵した。
ほんの少しだけ。
合理性の奥で、何かが揺れた気がした。
その時だった。
黄金色の光が、ゆっくりと灰崎の方へ近付いてきた。
《プロト・アニマ》だった。
小さな身体を震わせながら、それでも一歩ずつ近付いてくる。
「……俺?」
灰崎は剣を置いた。
両手を広げる。
「大丈夫。」
「もう誰にも、お前を奪わせない。」
その瞬間。
《プロト・アニマ》が灰崎の胸へ飛び込んだ。
ふわり、と温かな光が身体を包む。
頭の中へ、言葉ではない感情が流れ込んできた。
――たすけて。
――あの子を。
――まだ、生きたい。
灰崎は目を閉じた。
「任せろ。」
その一言で十分だった。
《プロト・アニマ》は灰崎の魂へ共鳴し、柔らかな黄金色の光となって両手へ集まる。
「浮雲!」
「ああ!」
浮雲が盾を掲げる。
絶界盾が共鳴し、巨大な根の動きを一瞬だけ止めた。
「今だ!」
灰崎は駆ける。
ユグドラシルの中心。
生命の溜まり。
そこへ両手を突き出した。
「届けぇぇぇぇぇッ!!」
黄金色の奔流が解き放たれる。
《プロト・アニマ》が生命の溜まりへ溶け込んでいく。
刹那。
世界が止まった。
ゴォォォォォォォ……。
静かな鼓動。
一つ。
また一つ。
ユグドラシルの根が黄金色へ染まる。
幹が脈打つ。
生命が巡る。
空洞を満たしていた軋みは消え、代わりに穏やかな振動だけが残った。
魂視の中で、欠けていた巨大な魂がゆっくりと満ちていく。
「戻ってる……。」
灰崎は思わず笑った。
「助かった。」
その瞬間。
ズォン――。
地上まで届くほどの低い震動が世界を包んだ。
だが、それは暴走ではない。
歓喜だった。
四天王たちの咆哮が遠くから響く。
炎天虎の炎が夜空を照らし、ロックガルーダが翼を広げ、スチームタイラントスネークが白い蒸気を高く噴き上げる。
彼らもまた、主の回復を感じ取ったのだ。
浮雲はその光景を見上げ、静かに笑う。
「おかえり。」
その一言に応えるように、ユグドラシル全体が大きく脈動した。
長い眠りから目覚めた巨獣は、もう何も奪おうとはしなかった。
灰崎は大きく息を吐く。
長かった戦いが、ようやく終わったのだった




