【怠惰の章】始まりの命(後編)
――《始原粒子》。
聞き慣れない言葉が、空洞に静かに響いた。
「……プロト・アニマ?」
灰崎は眉をひそめる。
魂術師として数多くの知識を学んできた。
魔力。
魂。
精霊。
神器。
だが、そのどれにも当てはまらない名だった。
浮雲は暴走を始めたユグドラシルへ視線を向けたまま口を開く。
「魂を知っているか?」
「……まあな。」
「魔力は?」
「当然だ。」
「じゃあ、その二つは何から生まれる?」
「……。」
灰崎は答えられなかった。
魂は魂。
魔力は魔力。
そういうものだと思っていた。
その沈黙を見て、浮雲は小さく笑う。
「誰も知らない。」
「だから幻なんだ。」
ゴゴゴゴゴゴ……。
再び地面が揺れた。
空洞の奥で根がうねる。
そのたびに魂視へ映る無数の小さな命が消えていく。
もう時間はない。
「《始原粒子》は、魂でも魔力でもない。」
浮雲はゆっくりと続けた。
「命が命になる、その一歩手前。」
「世界で最初に生まれた生命の雫だ。」
灰崎は思わず息を呑む。
「生命の……根源。」
「そう。」
「ユグドラシルほど巨大な生命になると、普通の栄養じゃ足りない。」
「だから昔は妖精たちが育てていた。」
「育ててた?」
「守っていたんじゃない。」
浮雲は首を横へ振る。
「育てていたんだ。」
その言葉で、灰崎の脳裏にあの大樹が浮かぶ。
妖精たちが命懸けで守っていた一本の大樹。
彼らは確かに言っていた。
『私たちは、この木を守る者です。』
あの言葉を、灰崎はずっとそのまま受け取っていた。
違ったのだ。
守ることが目的ではない。
育てることこそが使命だった。
「豊穣な土地から栄養を集める。」
「それを何百年、何千年とかけて凝縮する。」
「その果てに生まれるのが《始原粒子》。」
「そして、それをユグドラシルへ返す。」
浮雲は静かに目を伏せる。
「それが、この森の本当の循環だった。」
灰崎は魂視を広げた。
すると、妖精の大樹があった方角から、ごく僅かな黄金色の光が見えた気がした。
あまりにも弱い。
見落としてしまいそうなほど小さな輝き。
「……残ってる。」
「そうだ。」
浮雲が頷く。
「完全には失われていない。」
「まだ希望はある。」
ゴゴォォォン!!
突然、空洞全体が大きく揺れた。
天井へ亀裂が走る。
岩盤が砕け、大量の土砂が降り注いだ。
「伏せろ!」
三人は咄嗟に身を翻す。
轟音と共に巨大な岩塊が落下し、さっきまで害獣王がいた場所を押し潰した。
その衝撃でユグドラシルの根が大きく隆起する。
まるで地中を泳ぐ巨大な生物のように。
「もう始まってる……!」
灰崎は魂視でその動きを追う。
根は地下深くではなく、少しずつ上へ向かっていた。
地上。
太陽。
生きるために。
ただ、それだけを求めて。
サミエムが静かに剣を収める。
「推定更新。」
「残存時間、一時間四十七分。」
「短くなったな。」
「暴走速度が上昇している。」
感情のない報告。
だが、その一言が現実を突き付ける。
一時間四十七分。
その間に見つけなければ。
世界樹は地上へ現れる。
灰崎は深く息を吸った。
「場所は。」
浮雲は迷わず空洞のさらに奥を指差す。
巨大な根が何重にも絡み合い、一つの壁を作っている。
その隙間から、かすかな黄金色が漏れていた。
「あの先だ。」
「だが簡単には行けない。」
「どういうことだ?」
「《始原粒子》は……。」
浮雲は少しだけ言葉を選ぶ。
「物じゃない。」
「……え?」
「命なんだ。」
灰崎は思わず聞き返した。
「命?」
「そう。」
「世界で最初の生命。」
「だから意思を持つ。」
「だから逃げる。」
「だから選ぶ。」
灰崎は目を丸くした。
栄養素を探す。
そんな話ではなかった。
救わなければならないのはユグドラシルだけではない。
《始原粒子》自身にも意思がある。
その時だった。
「……キュ。」
小さな鳴き声。
三人が同時に顔を上げる。
根の壁の向こう。
黄金色の光がふわりと揺れた。
まるで小さな命が、こちらを窺うように。
「いた。」
浮雲が静かに呟く。
「最後の《始原粒子》だ。」
その瞬間。
ズズズズズズズッ!!
ユグドラシルの巨大な根が一斉に壁を突き破り、その小さな光へ向かって伸び始めた。
灰崎は反射的に駆け出す。
「まずい!」
浮雲も盾を構え、サミエムも無言で剣を抜く。
残された時間は、もうほとんどない。
世界の命運を握る、小さな光を守るために。




