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【怠惰の章】 始まりの命(前編)

 害獣王は動かなかった。


 巨大な身体をゆっくりと伏せ、黄金色に染まり始めた根の上へ静かに顎を預けている。


 先ほどまで空洞を埋め尽くいていた黒鼠たちも、もう牙を剥くことはなかった。


 王の周囲へ集まり、小さく鳴きながら身体を寄せ合っている。


 あれほど耳障りだった鳴き声も、今ではどこか穏やかに聞こえた。


 灰崎は剣を鞘へ納め、大きく息を吐く。


「……終わったな。」


 肩から力が抜ける。


 魂視で見える害獣王の魂は、もう先ほどのような濁った色ではなかった。


 底の見えない飢えはまだ残っている。


 それでも、暴走するほどではない。


 飢えを満たす術があると知った魂は、ようやく牙を収めることができたのだ。


 害獣王がゆっくりと灰崎を見る。


 その赤い瞳に敵意はない。


 灰崎も黙って頷いた。


「……またな。」


 害獣王は返事をする代わりに、小さく尾を揺らした。


 そのまま身体を反転させ、黒鼠たちを連れて暗い空洞の奥へ消えていく。


 やがて足音だけが遠ざかり、完全に聞こえなくなった。


 静寂。


 ようやく訪れた、本当の静寂だった。


「共存できたか。」


 浮雲が穏やかに微笑む。


「俺は、こういう終わり方が好きなんだ。」


「……ああ。」


 灰崎も自然と笑った。


 敵を倒すだけが勝利じゃない。


 そんな戦いもあるのだと、改めて思う。


 だが――。


 その安堵は、一瞬だった。


 ゴゴゴゴゴゴゴ……。


 空洞全体が震え始める。


 先ほどまでとは明らかに違う振動。


 害獣王が暴れているわけではない。


 もっと深い。


 もっと巨大な何かが動いている。


「……?」


 灰崎は眉をひそめた。


 天井から砂が降る。


 次の瞬間。


 ドガァァン!!


 巨大な岩塊が落下した。


「危ない!」


 三人は咄嗟に飛び退く。


 岩はさっきまで立っていた場所を砕き、粉塵を巻き上げた。


 終わっていない。


 そう直感した。


「何が起きてる……?」


 灰崎はすぐに魂視を広げる。


 黄金色に輝き始めた生命の流れ。


 それは確かに戻っている。


 生命の溜まりは機能していた。


 なのに。


「……何だ、これ。」


 違和感。


 巨大な魂。


 ユグドラシルの魂が、何かおかしい。


 光が戻っているのに、輪郭がどんどん痩せていく。


 生命が流れ込んでいる。


 なのに、生命力そのものは減っている。


「灰崎。」


 浮雲の声は低かった。


「見えるか。」


「ああ。」


 灰崎は目を細める。


 魂視をさらに深く潜らせる。


 すると見えた。


 無数の根。


 その一本一本へ、小さな光が無数に寄り添っている。


 植物。


 菌類。


 微生物。


 この森を支えてきた、数え切れない命。


 彼らは今までユグドラシルと栄養を分け合い、巨大な生態系を築いてきた。


 だが。


 今。


 その光が一つ、また一つと消えていく。


「……食べてる。」


 思わず声が漏れた。


「ユグドラシルが……。」


 根が共生する命へ絡み付く。


 奪う。


 吸収する。


 支え合ってきたはずの命を、自らの糧として取り込み始めていた。


「そんな……。」


 灰崎の喉が震える。


「どうして。」


「飢えているからだ。」


 浮雲は静かに答えた。


「害獣王と同じだ。」


「生きたい。」


「その本能だけで動いている。」


 灰崎は息を呑む。


 害獣王も。


 ユグドラシルも。


 悪意なんてなかった。


 ただ、生きたかっただけ。


 だからこそ苦しい。


「生命の溜まりは戻ったんじゃなかったのか!」


「戻った。」


 浮雲は頷く。


「循環は戻った。」


「だが……。」


 彼は足元の根へ手を添える。


 根は温かい。


 けれど、その温もりは弱々しかった。


「器が空なんだ。」


「長い年月で蓄えていた命を失い過ぎた。」


「流れ込むだけじゃ足りない。」


「蓄える命が残っていない。」


 ゴゴゴゴゴ……。


 また大きく揺れた。


 今度は空洞全体ではない。


 もっと遠く。


 森全域から響いてくるような振動だった。


 灰崎は魂視を広げる。


 その瞬間、顔色が変わる。


「森中で……始まってる。」


 共生していた植物。


 魔物。


 菌類。


 すべての命へ、ユグドラシルの根が伸び始めている。


 吸収。


 捕食。


 共存の終わり。


「止めないと!」


 灰崎が叫ぶ。


 しかし浮雲は首を横へ振った。


「まだ終わりじゃない。」


「これ以上飢えれば、ユグドラシルは次の行動へ移る。」


「次……?」


 浮雲は苦しそうに息を吐いた。


「太陽を求める。」


 その一言で、空気が凍る。


「地下じゃ足りない。」


「だから地上へ出る。」


 灰崎は目を見開いた。


「まさか……。」


「光合成。」


 浮雲の表情から笑みが消える。


「あの巨体が地上へ出れば、この世界の酸素濃度は一気に変わる。」


「生態系そのものが壊れる。」


 灰崎の背筋を冷たい汗が伝う。


 村だけの話じゃない。


 森だけでもない。


 世界そのものが危機に瀕している。


 その時だった。


 隣で黙っていたサミエムが静かに口を開く。


「推定。」


「現状維持可能時間、およそ二時間。」


 感情のない声。


「それ以降、ユグドラシルの地上進出確率は急激に上昇する。」


 灰崎は拳を握り締めた。


 二時間。


 それしかない。


 浮雲は静かに前を向く。


「救う方法は、一つだけだ。」


 そして、ゆっくりと続けた。


「――《始原粒子《プロト・アニマ》》。」

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