【怠惰の章】飢えの王(前編)
害獣王は動かなかった。
いや。
動く必要がなかった。
その巨体がそこに存在するだけで、巨大空洞は軋みを上げ、無数の根が悲鳴を上げている。
黒鼠たちは王の周囲を絶え間なく駆け回り、根を齧り、肉を喰らい、奪った栄養を王へと運び続ける。
それは一つの生態系だった。
歪み切った、世界を蝕む生態系。
「……来る。」
灰崎が呟いた。
魂視が未来を映す。
害獣王がゆっくりと前脚を持ち上げる。
「右へ飛べ!」
三人が同時に跳ぶ。
直後。
ズドォォォォォン!!
前脚が叩き付けられた。
衝撃だけで大地が裂ける。
根が弾け飛び、岩盤が砕け散る。
空気そのものが爆発したような轟音。
「……化け物。」
灰崎は額に汗を浮かべる。
直撃など論外。
掠っただけでも終わる。
「サミエム!」
「ああ。」
短い返事。
銀剣が静かに構えられる。
その瞳に感情はない。
あるのは演算だけ。
敵戦力。
再生能力。
移動速度。
突破率。
討伐成功率。
霊帝の抱擁が全てを計算し続けていた。
結論。
討伐を優先。
最も合理的。
サミエムは一歩踏み出した。
「待て!」
灰崎が叫ぶ。
「違う!」
「排除すれば問題は解決する。」
即答だった。
「違うって言ってんだ!」
「見えてるんだよ!」
灰崎は害獣王を指差す。
「こいつには弱点がない!」
「生命力が全身を循環してる!」
「どこを斬っても無駄だ!」
サミエムは僅かに視線だけを向けた。
「ならば総量を削る。」
「時間が掛かる!」
「問題ない。」
「問題ある!」
灰崎は歯噛みする。
霊帝の抱擁。
合理性だけを追求する思考。
感情も。
直感も。
切り捨てられている。
今のサミエムには見えていない。
害獣王は敵ではある。
だが。
原因ではない。
「灰崎。」
浮雲が静かに呼んだ。
「分かってる。」
その一言だけだった。
灰崎は振り返る。
浮雲は背負っていた巨大な盾をゆっくりと外す。
黒鉄の大盾。
無骨で飾り気はない。
しかし、その表面には無数の年輪のような紋様が刻まれていた。
まるで大樹そのものを削り出したような意匠。
「それが……」
灰崎が息を呑む。
「神器か。」
浮雲は静かに頷いた。
「絶界盾――」
盾を両手で支える。
「《アバドン・アイギス》。”
空気が変わった。
圧倒的な威圧感。
ではない。
温かい。
どこか懐かしい空気。
まるで故郷へ帰ってきたような安心感。
浮雲は盾を根へ向ける。
叩き付けない。
命令もしない。
ただ。
静かに語り掛ける。
「……少しだけ。」
「力を貸してくれ。」
一瞬。
静寂が訪れた。
そして。
ズ……。
巨大な根が動く。
一つ。
また一つ。
折れ掛けていた根が持ち上がり、互いに絡み合う。
崩れた岩を押し上げ、新たな足場を作る。
誰かに操られている動きではない。
自ら意思を持って応えている。
「すげぇ……。」
灰崎は思わず見入った。
これが。
共存。
支配ではない。
命令でもない。
助けを求め。
応えてもらう。
それが怠惰帝の神器。
「長くは保たない。」
浮雲の額から汗が落ちる。
「ユグドラシルも限界だ。」
「十分だ!」
灰崎は魂視を広げる。
崩れた道。
害獣王。
黒鼠の群れ。
全てが見える。
その中で。
一ヶ所だけ。
生命の流れが薄い場所があった。
「そこだ!」
灰崎が叫ぶ。
「サミエム!」
「害獣王は無視!」
「道だけ切り開け!」
サミエムは動かない。
霊帝の抱擁が演算する。
害獣王放置。
危険。
討伐優先。
成功率。
六十七%。
灰崎案。
突破成功率。
九十四%。
比較。
結論。
灰崎案を採用。
信頼ではない。
合理性。
ただそれだけ。
「了解。」
短く答える。
次の瞬間。
サミエムが消えた。
神速。
害獣王へ向かう。
「違っ!」
灰崎が目を見開く。
害獣王を狙った。
そう見えた。
しかし違う。
銀閃が奔る。
斬ったのは王ではない。
王の前方に積み重なった巨大な岩盤。
さらに。
絡み合った枯れ根。
最短。
最速。
生命の溜まりへ続く一本道だけを切り開いていく。
ズガァァァァン!!
瓦礫が吹き飛ぶ。
黄金色の光がさらに強く漏れ出した。
「走れ!」
灰崎が叫ぶ。
三人が同時に駆ける。
害獣王が咆哮した。
ギャアアアアアアアアアアアアッ!!
黒鼠が雪崩のように押し寄せる。
だが。
その全てをサミエムが斬り伏せる。
一切迷わず。
一切止まらず。
最短距離だけを選び続ける。
その姿を見つめながら。
灰崎は胸の奥で小さく呟いた。
(……違う。)
(お前は、本当はそんな戦い方をしたい訳じゃない。)
だが。
その想いは届かない。
霊帝の抱擁は。
今もなお。
サミエムから”迷い”という人間らしさを、静かに削ぎ落とし続けていた。




