【怠惰の章】命の流れ
害獣王の咆哮は、ユグドラシルの内部そのものを震わせた。
ゴゴゴゴゴゴゴ――。
地鳴りが止まらない。
頭上では巨大な岩盤が悲鳴を上げるように軋み、無数の亀裂が走っていた。
「来るぞ!」
灰崎が叫ぶ。
直後、天井が崩れた。
人の家ほどもある岩塊が三人へ降り注ぐ。
「邪魔だ」
サミエムが一歩前へ出る。
銀の刃が閃く。
轟音とともに岩塊は真っ二つとなり、砕け散った。
飛び散る破片を避けながら灰崎は魂視を広げる。
「左は駄目だ! 根が切れる!」
「了解」
浮雲が迷わず左へ飛び込み、折れかけた巨大な根を両腕で支えた。
その瞬間、根全体が淡く光る。
まるで支えられたことを理解したように。
「よし、まだ生きてる」
浮雲は小さく笑う。
灰崎はその姿を見て思った。
この男は本当に変わっている。
帝王でありながら、敵を倒すことより、目の前の命を支えることを優先する。
それは弱さではない。
彼が選び続けてきた生き方なのだ。
その間にも、黒鼠は止まらない。
四方八方から飛びかかってくる。
「灰崎!」
「正面三、右後方二!」
魂視が敵の動きを先読みする。
サミエムは指示に従い、一切迷いなく剣を振るう。
一閃。
二閃。
三閃。
黒鼠の群れが次々と地へ沈む。
しかし、その死骸へ別の黒鼠が群がる。
喰らう。
肉を。
栄養を。
仲間すらも。
「……本当に際限がないな」
灰崎が舌打ちする。
数を減らしているはずなのに、敵の圧力は変わらない。
いや、むしろ増している。
害獣王が傷付くたび、群れが栄養を運び、再び王を満たしていく。
終わりのない循環だった。
「灰崎!」
浮雲が叫ぶ。
「少し見てくれ!」
「何を!」
「王じゃない! もっと奥だ!」
灰崎は頷き、深く息を吸う。
魂視をさらに広げる。
頭痛が走る。
視界が滲む。
それでも意識を集中させた。
害獣王の巨体を越え、そのさらに奥へ。
「……!」
見えた。
今まで王の巨大な魂に隠されて見えなかったもの。
それは巨大な光の湖だった。
黄金色の生命力。
膨大な魂。
穏やかで、温かく、どこまでも優しい輝き。
そこから無数の光が根へ流れていく。
本来なら。
世界中へ。
ユグドラシル全体へ。
命を届けるはずだった。
だが今は違う。
害獣王が、その流れを塞いでいる。
光のほとんどが王へ吸い込まれ、世界へ流れていない。
「そういうことか……!」
灰崎は思わず叫んだ。
「分かったのか!」
浮雲が問う。
「王は原因じゃない!」
灰崎は害獣王を指差す。
「こいつは栄養を盗んでるだけだ!」
「栄養はもっと奥にある!」
「生命の溜まりだ!」
浮雲の目が大きく見開かれる。
「生命の……溜まり?」
「ああ!」
灰崎は必死に言葉を繋ぐ。
「ユグドラシル全体へ流れる生命力が、あそこに集まってる!」
「本来なら世界へ巡る命だ!」
「でも王が居座ってるせいで全部吸われてる!」
浮雲は奥を見つめる。
しばらく黙り込み、やがて静かに呟いた。
「……だからか」
「何だ?」
灰崎が聞く。
「妖精の大樹」
その言葉に、サミエムの動きが一瞬止まる。
浮雲は続けた。
「あの大樹は豊かな土地から栄養を集めてた」
「集めた栄養を生命の溜まりへ送り返してたんだ」
「だから守ってた」
「だから何百年も……」
灰崎もようやく全てが繋がった。
妖精は木を守っていたのではない。
世界の循環を守っていた。
栄養を集め、命を繋ぎ、ユグドラシルを生かし続けるために。
その役目を。
誰にも知られず。
たった一人で。
「……」
サミエムは何も言わなかった。
ただ剣を握る手が僅かに震える。
妖精の最後の姿が脳裏をよぎる。
笑っていた。
敵意はなかった。
それでも自分は斬った。
合理的だと思って。
必要な犠牲だと思って。
だが、その犠牲は世界そのものへ返ってきていた。
胸の奥が締め付けられる。
それでも今は立ち止まれない。
「灰崎!」
サミエムが低く呼ぶ。
「どうする」
灰崎は即座に答えた。
「順番が違う!」
「害獣王を倒しても意味がない!」
「生命の溜まりを取り戻す!」
その瞬間。
害獣王がゆっくりとこちらを向いた。
赤黒い瞳が三人を捉える。
そして。
まるで灰崎の考えを理解したかのように、その巨大な前脚を高く振り上げた。
「まずい!」
浮雲が叫ぶ。
ズドォォォォォンッ!!
前脚が地面へ叩きつけられる。
空洞全体が激しく揺れ、生命の溜まりへ続く唯一の根の道が轟音とともに崩れ落ちた。
巨大な岩が積み重なり、進路を完全に塞ぐ。
「くそっ!」
灰崎が歯噛みする。
だが、その時だった。
崩れた岩の隙間から。
淡い黄金色の光が漏れ出した。
暗闇を照らす、柔らかな輝き。
命そのもののような光。
灰崎はその光を見つめ、確信する。
「あそこだ……」
生命の溜まり。
ユグドラシルの命の源。
あと少し。
あと一歩届けば、この世界を救う道が開ける。
だがその前に。
害獣王が、その巨体をゆっくりと起こした。




