【怠惰の章】根の道
ユグドラシルの傷口へ足を踏み入れた瞬間。
空気が変わった。
森の湿気が消える。
代わりに漂うのは。
生暖かい風。
どこか生き物の体内を思わせる匂いだった。
「……」
灰崎は思わず周囲を見回す。
壁面は黒い。
岩にも見える。
だが違う。
脈打っている訳ではない。
動いている訳でもない。
それなのに。
生物だと理解できる。
不思議な感覚だった。
まるで巨大な獣の体内を歩いているような。
「気持ち悪いな」
灰崎が呟く。
「慣れる」
浮雲が答える。
「慣れたくない」
「俺も最初そう言った」
「今は?」
「諦めた」
らしい。
その会話だけ聞けば気楽だった。
だが。
誰も気を抜いてはいない。
特にサミエム。
先頭を歩きながら常に周囲を警戒している。
妖精の話から口数が減った。
考えているのだろう。
自分が斬ったものについて。
自分が見落としていた価値について。
だが今は触れない。
灰崎もそう思っていた。
傷はまだ新しい。
無理に開けば悪化する。
今は進むしかない。
道は緩やかに下っていた。
斜面。
暗闇。
そして。
時折見える巨大な根。
太い。
家どころか城ほどもある。
それが壁を貫き。
奥へ伸びている。
「これが根か」
灰崎が触れる。
温かい。
少しだけ。
生きている温度だった。
「うん」
浮雲が頷く。
「元気ないけどな」
その言葉に灰崎は眉をひそめた。
確かに。
色がおかしい。
黒ずんでいる。
乾いている。
活力がない。
「人間で言えば」
浮雲が言う。
「飯食わずに働き続けてる状態」
「それはきついな」
「きつい」
妙なところで説得力があった。
元社畜だからだろうか。
その時だった。
サミエムが足を止める。
「どうした」
灰崎が聞く。
返事はない。
代わりに。
サミエムは前方を指差した。
灰崎も見る。
そして。
目を見開いた。
根だ。
巨大な根。
その表面が削れている。
何かに。
無数の傷。
噛み跡。
抉られた痕跡。
「……何だこれ」
灰崎が呟く。
浮雲も近付く。
しばらく観察する。
そして。
「あー」
嫌そうな顔になった。
「予想より悪いな」
「知ってるのか」
「いや」
首を振る。
「でも分かる」
傷を指でなぞる。
「食われてる」
静かな声だった。
しかし。
その意味は重い。
「根が?」
「うん」
「誰かに?」
「何かに」
浮雲は訂正する。
「多分な」
灰崎は周囲を見る。
暗闇。
静寂。
何もいない。
だが。
その静けさが逆に不気味だった。
「つまり」
サミエムが口を開く。
「ユグドラシルは栄養不足」
「根は食われている」
「傷は広がっている」
「そういうことだ」
浮雲は頷いた。
そこで。
再び地面が揺れた。
ゴゴゴゴ……
低い振動。
壁から砂が落ちる。
天井の小石も転がる。
先程までより明らかに大きい。
「急がないとな」
浮雲の声も少し真剣になる。
「崩れるのか」
「まだ大丈夫」
一拍。
「今はな」
その言い方は。
未来の保証になっていなかった。
三人は再び歩き出す。
根に沿って。
さらに奥へ。
すると。
少しずつ景色が変わり始めた。
根が増えていく。
一つではない。
二つでもない。
何十。
何百。
巨大な根が絡み合い。
巨大な空洞を形成していた。
「すげぇ……」
灰崎は思わず呟く。
森より大きい。
山より広い。
地下にこんな世界があるなど誰が想像するだろう。
だが。
その壮大さに見惚れた直後。
灰崎は違和感に気付いた。
魂が見える。
遠く。
かなり遠く。
何かがいる。
「……浮雲」
「ん?」
「何かいる」
空気が変わる。
サミエムの手が剣へ伸びる。
「どこだ」
灰崎は目を細めた。
魂視を集中させる。
遠い。
だが確かにいる。
巨大な空洞の中心。
根が集まる場所。
そこに。
無数の魂。
そして。
その中央に。
異様に大きな一つ。
「何だあれ……」
灰崎の額に汗が流れる。
見たことがない。
ロックガルーダとも違う。
炎天虎とも違う。
スチームタイラントスネークとも違う。
だが。
四天王に匹敵する。
いや。
もしかすると。
それ以上。
浮雲の表情が消えた。
笑みも。
気の抜けた雰囲気も。
全部。
初めて見る顔だった。
「なるほど」
低い声。
「お前か」
灰崎は振り返る。
「知ってるのか?」
浮雲は少しだけ頷いた。
そして。
根の奥を見据えながら言った。
「昔話で聞いたことがある」
一拍。
嫌な予感しかしない。
「ユグドラシルの害獣だ」




