【怠惰の章】傷口
黒い穴は静かだった。
風もない。
音もない。
森の中にあるはずなのに、生き物の気配すら存在しない。
まるで世界から切り離された空間。
灰崎は穴の縁へ近付く。
そして魂を見る。
だが。
「見えない……」
思わず呟いた。
何も見えない。
底がない訳ではない。
深淵でもない。
ただ。
魂視が届かない。
まるでそこだけ世界の法則が違うようだった。
「そんなに変か?」
浮雲が聞く。
「変どころじゃない」
灰崎は眉を寄せる。
「何も見えない」
「そうか」
浮雲も穴を覗き込む。
しばらく黙る。
やがて。
「なら本当にまずいな」
と呟いた。
その時。
ズズズズズ……
再び地面が震えた。
先ほどより大きい。
木々が揺れる。
土が崩れる。
穴の縁から小石が落ちていく。
「おい」
サミエムが周囲を警戒する。
「長居は危険だ」
「だな」
珍しく浮雲も即答した。
そして。
穴の縁へしゃがみ込む。
土を掴む。
匂いを嗅ぐ。
触る。
指先で擦る。
完全に農家だった。
「何してるんだ」
灰崎が聞く。
「確認」
「何を」
「原因」
そう言って浮雲は穴の内側へ降りた。
「おい!」
灰崎が慌てる。
だが本人は平然としている。
数メートル下。
黒い壁面へ手を置く。
そして。
沈黙。
長い沈黙。
サミエムも灰崎も黙って見守る。
やがて。
浮雲がぽつりと言った。
「なるほど」
嫌な予感しかしない。
「何だ」
サミエムが聞く。
浮雲は壁を叩いた。
ゴン。
鈍い音。
「傷だな」
空気が止まった。
「……傷?」
灰崎が聞き返す。
「傷」
浮雲はもう一度言う。
「大きいけど」
「古いけど」
「傷だ」
灰崎は壁を見る。
黒い。
滑らか。
岩にも見える。
だが。
よく見ると違う。
確かに。
何かの表面だ。
「何の傷だ」
サミエムが問う。
浮雲は少し考えた。
そして。
「多分」
一拍。
「ユグドラシル」
誰も言葉を失った。
風が吹く。
森が軋む。
地面が震える。
しかし。
それ以上に。
その言葉の方が衝撃だった。
「ユグドラシルの傷?」
灰崎が呟く。
「つまり」
「この大地のか?」
「うん」
浮雲は頷く。
あまりにもあっさりと。
まるで畑に穴が空いていると言うみたいに。
「ここ最近なかったんだよ」
「何が」
「地盤沈下」
浮雲は壁を撫でる。
「でも最近増えてた」
「少しずつ」
「気付かない程度にな」
そして。
壁の一部を指差した。
そこには細かな亀裂が走っている。
「栄養不足だな」
今度はサミエムが眉を寄せた。
「傷じゃないのか」
「傷は傷」
「でも治ってない」
「だから広がる」
灰崎は何となく理解した。
人間で言えば。
怪我をした。
だが治る力が足りない。
だから悪化している。
そんな状態だ。
「老化もあるだろうな」
浮雲が続ける。
「長生きだから」
「生き物なのか」
灰崎が思わず聞く。
浮雲は不思議そうな顔をした。
「生き物だろ」
何を当たり前のことを。
そんな顔だった。
「いや……」
灰崎は言葉に詰まる。
普通なら。
大地は生き物じゃない。
だが。
ここはユグドラシルだ。
普通じゃない。
「じゃあ」
サミエムが口を開く。
「何故急に悪化した」
鋭い質問だった。
浮雲も頷く。
「そこなんだよな」
そして。
少し考える。
数秒。
十秒。
やがて。
「あー」
嫌そうな顔になった。
ものすごく嫌そうな顔。
灰崎は見覚えがある。
面倒な事実に辿り着いた時の顔だ。
「心当たりあるのか」
サミエムが聞く。
浮雲は即答しなかった。
代わりに。
空を見る。
森を見る。
そして。
小さくため息を吐いた。
「昔な」
珍しく昔話を始める。
「妖精がいたんだよ」
その瞬間。
サミエムの肩が僅かに揺れた。
灰崎は見逃さなかった。
「妖精?」
「ああ」
「変な奴でな」
「ずっと木を守ってた」
灰崎は黙る。
サミエムも。
浮雲はまだ気付いていない。
その妖精が。
既に死んでいることを。
「何百年も」
「何千年かもしれん」
「ずっと守ってた」
浮雲は壁を見上げる。
「豊かな土地を探して」
「根を張らせて」
「栄養を集める」
「そういう木だったらしい」
嫌な予感が強くなる。
「集めた栄養はどうなる」
灰崎が聞く。
浮雲は答える。
あまりにも自然に。
「ユグドラシルへ還る」
沈黙。
風だけが吹く。
誰も喋らない。
サミエムの顔色が変わっていた。
灰崎は知っている。
理解してしまったのだ。
何を意味するのか。
「……まさか」
サミエムが掠れた声を出す。
浮雲が振り返る。
「ん?」
「その妖精は」
言葉が続かない。
浮雲はまだ知らない。
知らないまま。
静かに言った。
「ユグドラシルを支える一部だったんだろうな」
その一言が。
サミエムへ突き刺さった。
妖精。
敵だと思った。
邪魔だと思った。
切り捨てた。
合理的だと思った。
だが。
もし。
その妖精が。
世界を支える存在だったのだとしたら。
自分は何を斬った?
何を失わせた?
サミエムは黙っていた。
何も言わない。
だが。
灰崎には分かった。
今までで一番。
霊帝の抱擁が揺らいでいることを。




