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【怠惰の章】止める者

第五十一話 止める者


 仮面の男が黒い石を握り潰した直後。


 森全体が震えた。


 地面が低く唸る。


 木々が揺れる。


 鳥とも獣ともつかない生き物たちが一斉に飛び立ち、森の奥へ逃げていく。


 嫌な音だった。


 まるで大地の奥で何かが軋んでいるような。


「何をした」


 サミエムの声が低くなる。


 剣先が男へ向く。


 仮面の男は笑っていた。


 カタカタと。


 壊れた人形のように。


「遅い」


 また同じ言葉だった。


「お前たちは何も知らない」


「答えろ」


「知らない方が幸せだ」


 その瞬間。


 サミエムが踏み込んだ。


 地面が弾ける。


 一瞬で間合いを詰める。


 速い。


 灰崎から見ても明らかだった。


 今のサミエムは迷っていない。


 妖精の件からずっと燻っていた焦燥。


 諜報員を失ったと思い込んでいた後悔。


 それらが全部混ざっている。


 だから速い。


 だから鋭い。


 だから危うい。


 キィィィィン!!


 剣が振り下ろされる。


 だが。


 仮面の男も反応した。


 懐から短剣を抜く。


 受ける。


 火花。


 衝撃。


 しかし体格差がある。


 押し負ける。


 男が後方へ跳ぶ。


「待て!」


 地図係が叫ぶ。


 だがサミエムは止まらない。


 追う。


 さらに追う。


 まるで獲物へ食らい付く獣のように。


 灰崎は違和感を覚えていた。


 男は弱い。


 少なくともサミエムより。


 殺意はある。


 だが強者ではない。


 それなのに。


 サミエムは最初から斬るつもりでいる。


 まるで。


 確認するという選択肢そのものが消えているみたいに。


 そして。


 その光景は。


 灰崎に嫌でも思い出させた。


 妖精の時を。


 あの瞬間を。


 サミエムが剣を振り下ろした瞬間を。


 灰崎が止められなかった瞬間を。


「……っ」


 嫌な予感がした。


 根拠はない。


 だが。


 根拠なんてあの時もなかった。


 それでも。


 間違っていたのはサミエムの方だった。


 だから。


 灰崎は動いた。


「待て!!」


 叫ぶ。


 だがサミエムは聞かない。


 剣が振り上がる。


 仮面の男が身構える。


 間に合わない。


 そう思った瞬間。


 灰崎の手が何かへ触れた。


 腰。


 浮雲から渡されていたもの。


 木で出来た奇妙な輪。


 武器にも見えない。


 道具にも見えない。


 ただ。


 浮雲が言っていた。


 困ったら使え、と。


「知らねぇぞ!!」


 灰崎はそれを投げた。


 輪が回転する。


 空中で光る。


 そして。


 サミエムと仮面の男の間へ落ちた。


 カラン。


 軽い音。


 次の瞬間だった。


 世界が静止した。


「――は?」


 灰崎が目を見開く。


 サミエムが止まっている。


 剣を振り下ろす寸前で。


 仮面の男も。


 構えたままで。


 風だけが吹いている。


 葉だけが揺れている。


 人だけが止まっている。


「……あー」


 浮雲が頭を掻いた。


「使ったか」


「何だこれ!?」


「仲裁」


 あまりにも簡潔だった。


「仲裁?」


「喧嘩してる奴らを落ち着かせる道具」


「そんな雑な説明あるか!?」


「大体合ってる」


 灰崎は輪を見る。


 淡く光っている。


 不思議な力だった。


 攻撃じゃない。


 拘束でもない。


 ただ。


 争いだけを止めている。


「便利だろ」


「便利すぎるだろ」


 浮雲は少し笑った。


 そして。


 仮面の男を見る。


「で」


 静かな声だった。


「何で諜報員を殺そうとした」


 仮面の男が沈黙する。


 数秒。


 やがて。


「殺そうとはしていない」


 と答えた。


 灰崎が眉をひそめる。


「嘘だろ」


「本当だ」


 男は言う。


「口を塞ごうとしただけだ」


「十分駄目だろ」


「聞かれたら困る」


「何を」


 男は諜報員を見る。


 そして。


「入口を見つけた」


 と言った。


 空気が変わった。


「入口?」


 地図係が聞く。


「何のだ」


 男は答えない。


 ただ。


 森のさらに奥を見る。


「ここじゃない」


「もっと奥」


「だから急いでいた」


 灰崎は諜報員を見る。


 重傷の男。


 震えている。


 恐怖ではない。


 焦りだった。


「おい」


 サミエムが言う。


 仲裁の力が弱まり始めている。


「説明しろ」


 諜報員は息を整える。


 そして。


「俺は――」


 そこまでだった。


 突然。


 影が落ちる。


 全員が顔を上げた。


 そして。


 凍り付く。


 空。


 巨大な岩。


 いや。


 岩塊。


 山の一部と言っていい大きさだった。


 それが落ちてきている。


 真上から。


「おい」


 地図係の声が震える。


「嘘だろ」


 逃げられない。


 間に合わない。


 考えるまでもない。


 直撃する。


 全員死ぬ。


 そう理解した瞬間。


 浮雲だけが空を見上げた。


「あー」


 心底面倒そうな声。


「来ると思った」


 次の瞬間。


 轟音。


 空気が裂ける。


 ゴォォォォォォォォォォォッ!!


 巨大な翼。


 圧倒的な風圧。


 灰崎は目を見開いた。


 ロックガルーダ。


 四天王。


 昼を統べる大空の王。


 それが空から降ってきた。


 巨大な翼が広がる。


 岩塊へぶつかる。


 ドゴォォォォォォン!!


 衝撃。


 大地が揺れる。


 木々が倒れる。


 爆風が吹き荒れる。


 灰崎たちは吹き飛ばされそうになる。


 しかし。


 岩は止まった。


 ロックガルーダが受け止めていた。


 山のような身体。


 岩の翼。


 金色の瞳。


 村で見た時とは違う。


 圧倒的だった。


 これが四天王。


 これがユグドラシルを支える存在。


 その事実を否応なく理解させられる。


 だが。


 浮雲の表情は晴れない。


「……おかしいな」


 小さく呟く。


 灰崎が聞く。


「何が」


「落石」


 短い返答。


「こんな場所で起きる規模じゃない」


 その瞬間だった。


 地面が揺れる。


 再び。


 今度はさっきより大きく。


 ズズズズズ……


 低い振動。


 森全体が軋む。


 遠くから咆哮が聞こえる。


 炎天虎。


 さらに別方向から蒸気が上がる。


 スチームタイラントスネーク。


 三体が同時に動いている。


 異常事態。


 それが誰の目にも明らかだった。


 そして。


 灰崎は気付く。


 地面が。


 揺れているのではない。


 動いている。


 ゆっくり。


 本当にゆっくりと。


 世界そのものが。


 どこかへ進み始めている。


「……何だ」


 灰崎の声が掠れる。


「何が起きてる」


 浮雲は珍しく笑わなかった。


 ただ。


 森の奥を見ていた。


「あー……」


 深いため息。


「起きちゃったか」


 その声には。


 初めて焦りが混じっていた。

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