【怠惰の章】森の狩人
黒い短剣が地面へ突き刺さっていた。
震えている。
まだ勢いが残っている証拠だった。
灰崎は視線を向ける。
森の奥。
木々。
蔦。
葉。
何も見えない。
だが確かにいた。
殺そうとした。
今この瞬間。
諜報員を。
「下がれ」
サミエムが短く言う。
地図係が諜報員を庇うように位置を変える。
灰崎も前へ出る。
自然だった。
戦闘態勢。
何度も繰り返してきた。
しかし。
浮雲だけは違った。
しゃがみ込んで短剣を拾い上げている。
まるで畑から珍しい石でも見つけたような気軽さで。
「おい」
灰崎が声を掛ける。
「危なくないのか」
「ん?」
浮雲は短剣を眺める。
刃。
柄。
重心。
何かを確認しているようだった。
「危ないな」
「じゃあ構えろよ」
「もう投げないだろ」
意味が分からない。
だが。
浮雲は本気だった。
そして。
森を見る。
静かに。
じっと。
数秒。
風だけが吹いている。
葉が揺れる。
何も起きない。
灰崎たちの緊張だけが高まっていく。
「逃げたか?」
地図係が言う。
その瞬間。
浮雲が首を横へ振った。
「いや」
そして。
森の一点を指差す。
「あそこ」
直後。
サミエムが動いた。
剣が抜かれる。
閃光。
斬撃。
バキィッ!!
木の幹が切断される。
その陰から影が飛び出した。
「いた!」
灰崎が叫ぶ。
黒い外套。
細身。
人間だ。
間違いなく。
相手も驚いていた。
見つかると思っていなかったのだろう。
だが。
それでも反応は速い。
着地。
反転。
逃走。
森の奥へ。
「待て!」
サミエムが追う。
灰崎も続く。
浮雲はため息を吐いた。
「若いなぁ」
言いながら普通に歩き始める。
「走らないのか!」
灰崎が振り返って叫ぶ。
「逃げんよ」
「何で分かる!」
「逃げる方向が悪い」
また意味不明だった。
しかし。
この男の言葉は妙に当たる。
だから無視できない。
森の中を進む。
追跡は長くなかった。
数分も経たないうちに。
黒い外套の男は立ち止まった。
正確には。
立ち止まるしかなかった。
前方。
崖。
突然地面が途切れていた。
「っ!」
男が振り返る。
そこへサミエムが到着。
剣を向ける。
「終わりだ」
低い声。
男は無言。
顔も見えない。
仮面を付けていた。
地図係も追い付く。
灰崎も。
そして最後に。
浮雲。
「だから言ったろ」
欠伸混じりだった。
「逃げんって」
「……」
男は黙ったまま。
ただ浮雲を見る。
その瞬間。
灰崎は違和感を覚えた。
恐怖。
警戒。
敵意。
そういうものではない。
もっと別の何か。
知っている。
そんな目だった。
「お前」
灰崎が言う。
「誰だ」
返事はない。
「何故諜報員を狙った」
沈黙。
サミエムの剣先が僅かに前へ出る。
「答えろ」
殺気が混じる。
普通なら喋る。
だが男は動かなかった。
そして。
突然。
笑った。
カタカタ。
仮面の奥から。
乾いた笑い声。
「何がおかしい」
サミエムが言う。
男はゆっくり口を開いた。
「遅い」
その一言だった。
「……何?」
「遅い」
もう一度。
男は言う。
そして。
仮面の奥から。
浮雲を見る。
真っ直ぐに。
「お前も」
空気が変わった。
灰崎は反射的に浮雲を見る。
しかし。
浮雲の表情は変わらない。
「知り合いか?」
灰崎が聞く。
「いや」
即答。
「初めて見る」
だが。
男は笑っていた。
「そうか」
掠れた声。
「なら」
一拍置く。
「まだ知らないんだな」
嫌な予感。
本能が警鐘を鳴らす。
その瞬間だった。
男が懐へ手を入れる。
サミエムが反応する。
斬る。
だが遅い。
男は何かを取り出していた。
石。
黒い石。
拳大。
「まずい」
浮雲が初めて顔色を変えた。
直後。
男が石を叩き割る。
パリン。
軽い音。
次の瞬間。
森が揺れた。
大地が震える。
空気が重くなる。
まるで。
何か巨大な存在が目を覚ましたような。
圧力。
そして。
遠く。
本当に遠くから。
聞こえてきた。
咆哮。
それは炎天虎でも。
ロックガルーダでも。
スチームタイラントスネークでもない。
灰崎が聞いたことのない。
このユグドラシルのどこかに潜む。
別の何かの声だった。




