【怠惰の章】倒れた諜報員
森を駆ける。
湿った土を蹴り上げながら。
巨大な根を飛び越えながら。
灰崎たちはひたすら東へ進んでいた。
先頭は浮雲。
迷いがない。
まるで最初から目的地を知っているかのようだった。
「本当に分かるのか?」
走りながら灰崎が聞く。
「何が」
「場所」
「何となく」
またそれだ。
何となく。
勘。
感覚。
この男はやたらと曖昧な言葉を使う。
だが。
結果だけは外さない。
だから厄介だった。
サミエムも何も言わない。
今は一秒でも惜しい。
そう判断しているのだろう。
しばらく進む。
すると。
空気が変わった。
湿った森の匂い。
土の匂い。
植物の匂い。
そこへ混じる。
鉄臭さ。
血の匂いだった。
サミエムの顔が険しくなる。
灰崎も気付いた。
濃い。
先ほどの血痕よりずっと。
風に乗って流れてくる。
「近いな」
浮雲が呟く。
歩調が速くなる。
全員が続く。
やがて。
森が少し開けた。
倒木。
崩れた岩。
むき出しの根。
自然にできた空間。
そして。
そこに人がいた。
「――っ!」
地図係が息を呑む。
灰崎も足を止めた。
男だった。
倒れている。
全身傷だらけ。
服は破れ。
血で汚れ。
呼吸も浅い。
しかし。
生きている。
「諜報員!」
地図係が駆け寄る。
サミエムも続く。
男の顔を見る。
間違いない。
探していた本人だった。
安堵。
だが。
それは一瞬だった。
「待て」
浮雲が言う。
全員の動きが止まる。
「何だ」
サミエムが振り返る。
浮雲は周囲を見ていた。
森。
木々。
地面。
空気。
何かを探るように。
そして。
「変だな」
と呟く。
「何が」
「追われてたんだろ」
「ああ」
「ならおかしい」
灰崎も周囲を見る。
だが分からない。
何もない。
静かな森だ。
「何がおかしい」
サミエムが聞く。
浮雲は倒れた諜報員を見る。
「追手がいない」
沈黙。
確かに。
言われてみれば。
おかしい。
追われていた。
それはスチームタイラントスネークも見ている。
足跡もあった。
血痕もあった。
なら。
何故ここに誰もいない?
「逃げ切ったんじゃないか?」
地図係が言う。
浮雲は首を傾げた。
「そうかな」
その時だった。
倒れていた諜報員の指が動く。
「!」
サミエムが身を乗り出す。
男が薄く目を開く。
焦点が合わない。
呼吸も荒い。
だが。
確かに意識が戻っていた。
「おい」
サミエムが声を掛ける。
「しっかりしろ」
男の視線が揺れる。
そして。
サミエムを見る。
地図係を見る。
灰崎を見る。
最後に。
浮雲を見た。
一瞬だった。
だが。
その瞬間。
男の顔色が変わった。
恐怖。
それに近い何か。
「……?」
灰崎は違和感を覚える。
何故だ。
何故浮雲を見てそんな顔をする。
男は震える唇を動かした。
何か言おうとしている。
サミエムが耳を寄せる。
「何だ」
「何があった」
諜報員は必死に息を吸う。
そして。
掠れた声で言った。
「逃げろ」
空気が凍る。
「何?」
地図係が聞き返す。
「逃げろ」
もう一度。
今度ははっきり。
諜報員は言った。
「来る」
灰崎の背筋を冷たいものが走る。
「何が来る」
サミエムが問う。
男は答えようとする。
しかし。
その瞬間。
浮雲が顔を上げた。
初めてだった。
今まで見たことがないほど真剣な表情。
「……あー」
心底面倒そうな声。
そして。
「遅かったか」
と呟いた。
次の瞬間。
森の奥から。
何かがこちらへ向けて放たれた。
音もない。
気配もない。
ただ。
一直線に。
諜報員の頭を狙って。
飛来する。
だが。
それより早く。
浮雲が動いていた。
カンッ!!
乾いた音。
何かが弾かれる。
地面へ落ちた。
灰崎は目を見開く。
短剣だった。
黒い。
見覚えのない形状。
毒々しい刃。
そして。
明らかに殺意を持って投げられたもの。
森の向こう。
木々の奥。
誰かがいる。
見ている。
こちらを。
「……なるほど」
浮雲が小さく呟く。
そして。
珍しく少しだけ笑った。
楽しそうでもない。
嬉しそうでもない。
ただ。
状況を理解した顔だった。
「やっと分かった」
その言葉に。
灰崎は嫌な予感を覚える。
今まで何もかも飄々としていた男が。
初めて。
敵を見る目をしていた。




