【怠惰の章】白き蒸気の王
スー坊。
その名前を聞いた瞬間。
灰崎は頭を抱えたくなった。
ガル坊。
トラ坊。
そしてスー坊。
どれもこれも近所の知り合いみたいな呼び方だ。
だが実態は違う。
ロックガルーダ。
炎天虎。
スチームタイラントスネーク。
ユグドラシルの生態系を支える三柱。
四天王と呼ばれる超常の存在。
その一角が今。
目の前にいる。
森の奥。
白い蒸気が漂っている。
地面を覆う霧のように。
しかし違う。
これは自然現象ではない。
生き物の呼吸だ。
シューッ―――。
低い音。
蒸気の吐き出される音。
そして。
ゆっくりと。
巨大な影が姿を現した。
「……でかいな」
地図係が呟く。
誰も否定できなかった。
大きい。
ただ大きいのではない。
異常なほど。
木々の隙間を縫うように現れた胴体は、もはや大蛇というより列車だった。
白銀の鱗。
節々から漏れ出る蒸気。
頭部には複数の角。
瞳は深い蒼。
冷静な知性を感じさせる色だった。
炎天虎のような威圧感はない。
ロックガルーダのような雄大さもない。
だが。
別の意味で恐ろしい。
静かなのだ。
静か過ぎる。
まるで巨大な機械を見ているようだった。
魂を見る。
灰崎は思わず息を止めた。
流れている。
魂が。
まるで川のように。
絶え間なく。
循環している。
炎天虎は燃えていた。
ロックガルーダは沈んでいた。
だがこの蛇は違う。
流れている。
止まらない。
絶え間なく。
世界の一部みたいに。
「……」
灰崎は少しだけ理解する。
こいつらは魔物ではない。
少なくとも。
ただの魔物ではない。
ユグドラシルという巨大な生命を構成する器官のようなものだ。
だから。
魂も普通ではない。
「スー坊」
浮雲が声を掛けた。
巨大な蛇が顔を向ける。
蒼い瞳。
浮雲を見る。
そして。
ゆっくり瞬きをした。
知っている。
そんな反応だった。
「珍しいな」
浮雲が言う。
「こっち来るなんて」
蛇は低く鳴く。
ゴォォォ……。
地面の奥で響くような音。
灰崎には意味が分からない。
だが浮雲は頷いている。
「なるほど」
「何がなるほどなんだ」
地図係が聞く。
「西の地盤が緩んでるらしい」
「は?」
「だから食いに来た」
意味が分からない。
しかし。
浮雲にとっては当然らしい。
「待て」
灰崎が言う。
「食う?」
「うん」
「何を」
「地盤」
さらっと返された。
「……」
「……」
「……」
三人とも黙る。
浮雲だけが普通だった。
「スー坊はな」
歩きながら説明する。
「蒸気を食う」
「蒸気?」
「正確には温度差で生まれる流れだな」
熱。
冷気。
水蒸気。
それらが生み出す循環。
「それを食って地盤を固める」
灰崎は少し思い出す。
昨日の話だ。
炎天虎が夜を作る。
ロックガルーダが岩盤を食う。
そして。
スチームタイラントスネークが地盤を維持する。
共生関係。
循環。
ユグドラシルを支える仕組み。
「だから」
浮雲は続ける。
「こいつがいないと結構困る」
スー坊が小さく鳴く。
褒められたと思ったのかもしれない。
いや。
違う気もする。
よく分からない。
だが。
少なくとも敵意はなかった。
その時だった。
スチームタイラントスネークが急に頭を動かした。
空気が変わる。
蒸気が濃くなる。
灰崎は反射的に身構えた。
サミエムも剣へ手を置く。
「ん?」
浮雲も表情を変えた。
初めてだった。
少しだけ真剣な顔。
「どうした」
蛇は前方を見る。
森の奥。
さらに東。
諜報員が向かった方向。
ゴォォォォ……。
低い鳴き声。
警戒。
そんな響きだった。
浮雲の眉が動く。
「何かいるのか?」
さらに鳴く。
長く。
ゆっくり。
まるで説明するように。
数秒。
浮雲は黙って聞いていた。
やがて。
「へぇ」
と呟く。
「それは珍しいな」
「何だ」
サミエムが聞く。
浮雲は振り返った。
そして。
少しだけ困ったように笑った。
「お前らの探し人」
空気が変わる。
「見たらしい」
灰崎の心臓が跳ねる。
「どこだ」
サミエムが即座に問う。
浮雲は森の奥を見る。
東。
さらに奥。
「生きてる」
まずそう言った。
三人とも安堵する。
だが。
次の言葉でその安堵は消えた。
「ただ」
浮雲が眉をひそめる。
「何か追われてるな」
沈黙。
森を風が抜ける。
蒸気が流れる。
「追われている?」
灰崎が聞く。
「ああ」
浮雲は頷く。
「しかも」
少しだけ考える。
「ユグドラシルの生き物じゃない」
その言葉に。
灰崎たちは顔を見合わせた。
ユグドラシルの生物ではない。
つまり。
外から来た何か。
あるいは。
もっと別の何か。
「面倒だな」
浮雲が呟く。
本当に面倒そうだった。
しかし。
灰崎の胸には別の感情があった。
不安。
警戒。
そして。
予感。
諜報員はただ遭難したのではない。
何かを見つけた。
だから追われている。
そんな気がした。
そしてその何かは。
このユグドラシルの奥深くに隠されている。
帝王ですら簡単には触れられない。
何かだった。




