【怠惰の章】浮雲
断崖だった。
灰崎は反射的に足を止める。
目の前には闇。
底は見えない。
どれほど深いのかすら分からない。
あと数歩遅れていたら、そのまま落ちていた。
「っぶねぇ……!」
地図係が尻餅をつく。
呼吸は乱れ、顔面は蒼白だった。
灰崎も同じだ。
だが問題は前ではない。
後ろだった。
森が揺れる。
木々が軋む。
重い足音が近付いてくる。
一歩。
また一歩。
逃げ場はない。
断崖。
そして炎天虎。
完全な詰みだった。
サミエムが剣を抜く。
迷いのない動作だった。
灰崎も武器を構える。
勝てない。
それは分かっている。
だが何もしないまま死ぬ気もなかった。
森の向こう。
赤い瞳が揺れる。
二つ。
巨大な灯火のような眼。
夜の中で異様な存在感を放っていた。
熱が近付いてくる。
寒かったはずの森が再び暖まり始める。
炎天虎。
あれが夜を作る存在なのか。
そんな考えが頭を過った瞬間。
「いやぁ」
声がした。
場違いなほど気の抜けた声だった。
「こんな時間に森を歩くとか」
全員が反射的に振り向く。
声は上からだった。
大木の枝。
そこに一人の男が座っていた。
「自殺志願者かと思ったわ」
眠そうな顔。
二十代後半か三十代前半。
黒髪を後ろで適当に束ねている。
服装も地味だ。
どこにでもいそうな旅人。
いや。
村人と言われた方がしっくりくる。
そんな男だった。
だが。
こんな場所にいる時点で異常だった。
「誰だ」
サミエムが低く問う。
「んー?」
男は首を傾げる。
「通りすがり」
「ふざけるな」
「本当なんだけどなぁ」
困ったように笑う。
緊張感がない。
あまりにも。
背後には炎天虎がいる。
今にも襲われそうな状況だ。
それなのに。
男だけが昼下がりみたいな顔をしている。
そして。
赤い瞳を見た。
「あー」
面倒臭そうに頭を掻く。
「トラ坊」
その呼び方に。
三人は固まった。
トラ坊。
あの化け物を?
まるで飼い犬のように?
「脅かすなって」
男は言う。
「迷子だろ。そいつら」
沈黙。
数秒。
何も起きない。
灰崎は炎天虎を見た。
赤い瞳が揺れる。
怒っているようにも見える。
不満そうにも見える。
だが。
次の瞬間。
炎天虎が鼻を鳴らした。
フシュウゥゥゥ。
熱風が吹き抜ける。
木々が大きく揺れた。
そして。
足音が遠ざかる。
一歩。
また一歩。
森の奥へ。
やがて赤い瞳も消えた。
静寂。
夜だけが残る。
「……は?」
地図係が呆然と呟いた。
当然だった。
灰崎も理解できていない。
サミエムだけが男を睨んでいる。
「何者だ」
もう一度問う。
今度は先ほどよりずっと重い声だった。
男は枝から飛び降りる。
軽い。
音もなく地面へ着地する。
そして肩を竦めた。
「だからただの村人だって」
「信用できると思うか?」
「別にしなくていいぞ」
あっさり返された。
「その代わり」
男は空を見る。
正確には森の奥。
炎天虎が去った方向を。
「次来た時は助けん」
さらりと言う。
「俺も眠いし」
地図係が何とも言えない顔をした。
灰崎も同じだった。
この男。
何かがおかしい。
強者特有の威圧感がない。
英雄みたいな雰囲気もない。
帝王らしさなんて欠片もない。
なのに。
炎天虎が言うことを聞いた。
それだけで十分異常だった。
灰崎は魂を見る。
そして。
息を呑んだ。
深い。
ただ深かった。
激情もない。
野心もない。
支配欲もない。
まるで穏やかな湖。
だが底が見えない。
どこまでも。
どこまでも。
沈んでいく。
そんな感覚だった。
男が灰崎を見る。
「ん?」
灰崎は慌てて視線を逸らした。
気付かれた気がした。
そんな錯覚。
男は気にした様子もなく笑う。
「まぁいいや」
そして。
断崖の脇へ歩いていく。
「来いよ」
「どこへだ」
サミエムが問う。
男は振り返った。
少しだけ。
楽しそうに。
「家」
それだけだった。
「こんな所で野宿したら死ぬぞ」
夜風が吹く。
冷たい。
炎天虎が去った今、その寒さは余計に身に染みた。
三人は顔を見合わせる。
選択肢はない。
結局。
サミエムが最初に歩き出した。
灰崎が続く。
地図係も渋々ついていく。
男はそれを見て笑った。
「よし」
そして前を向く。
「じゃあ帰るか」
その背中を見ながら。
灰崎は思った。
この男。
本当に何者なんだ、と。




