↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
194/304

【怠惰の章】浮雲

 断崖だった。


 灰崎は反射的に足を止める。


 目の前には闇。


 底は見えない。


 どれほど深いのかすら分からない。


 あと数歩遅れていたら、そのまま落ちていた。


「っぶねぇ……!」


 地図係が尻餅をつく。


 呼吸は乱れ、顔面は蒼白だった。


 灰崎も同じだ。


 だが問題は前ではない。


 後ろだった。


 森が揺れる。


 木々が軋む。


 重い足音が近付いてくる。


 一歩。


 また一歩。


 逃げ場はない。


 断崖。


 そして炎天虎。


 完全な詰みだった。


 サミエムが剣を抜く。


 迷いのない動作だった。


 灰崎も武器を構える。


 勝てない。


 それは分かっている。


 だが何もしないまま死ぬ気もなかった。


 森の向こう。


 赤い瞳が揺れる。


 二つ。


 巨大な灯火のような眼。


 夜の中で異様な存在感を放っていた。


 熱が近付いてくる。


 寒かったはずの森が再び暖まり始める。


 炎天虎。


 あれが夜を作る存在なのか。


 そんな考えが頭を過った瞬間。


「いやぁ」


 声がした。


 場違いなほど気の抜けた声だった。


「こんな時間に森を歩くとか」


 全員が反射的に振り向く。


 声は上からだった。


 大木の枝。


 そこに一人の男が座っていた。


「自殺志願者かと思ったわ」


 眠そうな顔。


 二十代後半か三十代前半。


 黒髪を後ろで適当に束ねている。


 服装も地味だ。


 どこにでもいそうな旅人。


 いや。


 村人と言われた方がしっくりくる。


 そんな男だった。


 だが。


 こんな場所にいる時点で異常だった。


「誰だ」


 サミエムが低く問う。


「んー?」


 男は首を傾げる。


「通りすがり」


「ふざけるな」


「本当なんだけどなぁ」


 困ったように笑う。


 緊張感がない。


 あまりにも。


 背後には炎天虎がいる。


 今にも襲われそうな状況だ。


 それなのに。


 男だけが昼下がりみたいな顔をしている。


 そして。


 赤い瞳を見た。


「あー」


 面倒臭そうに頭を掻く。


「トラ坊」


 その呼び方に。


 三人は固まった。


 トラ坊。


 あの化け物を?


 まるで飼い犬のように?


「脅かすなって」


 男は言う。


「迷子だろ。そいつら」


 沈黙。


 数秒。


 何も起きない。


 灰崎は炎天虎を見た。


 赤い瞳が揺れる。


 怒っているようにも見える。


 不満そうにも見える。


 だが。


 次の瞬間。


 炎天虎が鼻を鳴らした。


 フシュウゥゥゥ。


 熱風が吹き抜ける。


 木々が大きく揺れた。


 そして。


 足音が遠ざかる。


 一歩。


 また一歩。


 森の奥へ。


 やがて赤い瞳も消えた。


 静寂。


 夜だけが残る。


「……は?」


 地図係が呆然と呟いた。


 当然だった。


 灰崎も理解できていない。


 サミエムだけが男を睨んでいる。


「何者だ」


 もう一度問う。


 今度は先ほどよりずっと重い声だった。


 男は枝から飛び降りる。


 軽い。


 音もなく地面へ着地する。


 そして肩を竦めた。


「だからただの村人だって」


「信用できると思うか?」


「別にしなくていいぞ」


 あっさり返された。


「その代わり」


 男は空を見る。


 正確には森の奥。


 炎天虎が去った方向を。


「次来た時は助けん」


 さらりと言う。


「俺も眠いし」


 地図係が何とも言えない顔をした。


 灰崎も同じだった。


 この男。


 何かがおかしい。


 強者特有の威圧感がない。


 英雄みたいな雰囲気もない。


 帝王らしさなんて欠片もない。


 なのに。


 炎天虎が言うことを聞いた。


 それだけで十分異常だった。


 灰崎は魂を見る。


 そして。


 息を呑んだ。


 深い。


 ただ深かった。


 激情もない。


 野心もない。


 支配欲もない。


 まるで穏やかな湖。


 だが底が見えない。


 どこまでも。


 どこまでも。


 沈んでいく。


 そんな感覚だった。


 男が灰崎を見る。


「ん?」


 灰崎は慌てて視線を逸らした。


 気付かれた気がした。


 そんな錯覚。


 男は気にした様子もなく笑う。


「まぁいいや」


 そして。


 断崖の脇へ歩いていく。


「来いよ」


「どこへだ」


 サミエムが問う。


 男は振り返った。


 少しだけ。


 楽しそうに。


「家」


 それだけだった。


「こんな所で野宿したら死ぬぞ」


 夜風が吹く。


 冷たい。


 炎天虎が去った今、その寒さは余計に身に染みた。


 三人は顔を見合わせる。


 選択肢はない。


 結局。


 サミエムが最初に歩き出した。


 灰崎が続く。


 地図係も渋々ついていく。


 男はそれを見て笑った。


「よし」


 そして前を向く。


「じゃあ帰るか」


 その背中を見ながら。


 灰崎は思った。


 この男。


 本当に何者なんだ、と。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。