【怠惰の章】夜を喰らうもの
ユグドラシルの昼が終わった。
その瞬間だった。
「……寒っ!?」
地図係が叫ぶ。
つい数秒前まで汗だくだった身体が、一気に冷やされる。
灰崎も思わず腕を擦った。
異常だった。
気温の落ち方が。
夕方になる。
夜になる。
そんな生易しい変化じゃない。
まるで誰かが世界から熱そのものを奪ったような感覚だった。
蒸し暑かった森が。
数分も経たないうちに冷え始める。
息が白くなるほどではない。
だが確実に寒い。
湿気を含んだ冷気が服の中へ入り込む。
昼とは別の意味で不快だった。
「何だよこれ……」
地図係が震える。
「知らん」
サミエムが短く返す。
だがその声にも僅かな警戒が混じっていた。
灰崎は周囲を見る。
そして気付く。
森が死んだように静かだった。
虫の声がない。
鳥の声もない。
獣の気配も薄い。
昼間あれほど感じた生命の息吹が消えていた。
いや。
隠れている。
そう表現した方が正しい。
生き物たちが何かを恐れて息を潜めている。
そんな印象だった。
「火を起こすか?」
地図係が言う。
「馬鹿か」
即座にサミエムが切り捨てる。
「目立つ」
「でも寒いぞ」
「死ぬよりマシだ」
それで会話は終わった。
誰も反論できない。
未知の環境だ。
何が危険か分からない以上、目立つ行動は避けるべきだった。
だが。
その判断が正しかったことを。
彼らは数分後に知る。
ガサッ。
森の奥で音がした。
三人が同時に武器へ手を伸ばす。
だが現れたのは敵ではなかった。
昼間見た葉の羽毛を持つ鳥だった。
いや。
同種だろう。
巨大な鳥。
しかし様子がおかしい。
怯えている。
羽を震わせている。
何かから逃げている。
そして。
三人の存在にも気付かず駆け抜けていった。
「……おい」
地図係の顔色が変わる。
「嫌な予感しかしねぇぞ」
灰崎も同感だった。
鳥は逃げていた。
捕食者から。
圧倒的な何かから。
その時。
遠くで赤い光が揺れた。
二つ。
並んだまま。
まるで夜空に浮かぶ星のように。
だが。
星ではない。
少しずつ。
こちらへ近付いている。
「見えるか」
サミエムが低く呟く。
「ああ」
灰崎も答える。
見えている。
見えてしまっている。
赤い光。
いや。
目だ。
あれは目だ。
生物の。
巨大な。
何かの。
すると。
灰崎の視界に色が映った。
魂の色。
遥か遠く。
普通なら見えない距離。
それなのに。
あまりにも濃すぎて見えてしまう。
炎のような色。
灼熱。
怒り。
闘争。
獰猛。
そんな感情が渦巻いている。
「……やばいな」
思わず呟く。
こんな魂の色は見たことがない。
暴食帝の魔獣ですら比べ物にならない。
質が違う。
格が違う。
まるで自然災害。
生物というより現象だった。
その瞬間。
森の奥で火花が散った。
いや。
違う。
目だ。
赤い光が瞬いた。
それだけ。
それだけだった。
だが。
周囲の木々が燃え上がった。
「は?」
地図係が固まる。
木々が燃える。
一瞬で。
まるで油でも撒かれていたかのように。
炎はすぐ消えた。
だが確かに燃えた。
見間違いじゃない。
そして。
その炎に照らされた。
巨大な影。
三人は見た。
縞模様。
四本脚。
異常な体躯。
山のような肩。
そして。
二つの赤い眼。
全身は見えない。
森が邪魔をしている。
だが。
それだけで十分だった。
理解できた。
勝てない。
絶対に。
地図係の顔から血の気が引く。
灰崎も同じだった。
サミエムだけが静かに剣を握る。
そして。
低く言った。
「走るぞ」
迷いはなかった。
「は?」
「今すぐだ」
その瞬間。
遠くの赤い眼が。
こちらを向いた。
空気が凍る。
本能が叫ぶ。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
サミエムが走り出した。
灰崎も反射的に続く。
地図係も転がるように走る。
背後で。
森が震えた。
ドォォォォォン!!
何かが着地した音。
地面が跳ねる。
木々が揺れる。
そして。
夜を切り裂く咆哮が響いた。
それは獣の声ではなかった。
怒りそのものだった。
森中の生き物が震え上がる。
灰崎たちは振り返らない。
振り返れば終わる。
そんな確信があった。
ただ走る。
暗闇の中を。
必死に。
そして。
気付かなかった。
逃げる彼らを。
少し離れた丘の上から。
一人の老人が眺めていたことに。
「おやおや」
老人は困ったように頭を掻いた。
「またトラ坊が暴れてるなぁ」
呑気な声だった。
まるで近所の犬が吠えているのを見たような。
そんな口調で。
老人は煙管を咥えた。
そして。
逃げ惑う三人を見て苦笑する。
「若いのぉ」
そう言って。
ゆっくりと歩き出した。




