【怠惰の章】終わらない昼
ユグドラシルの森は異常だった。
それは落下直後から感じていた。
だが実際に歩き続けると、その異常さは想像以上だった。
「暑い……」
地図係が額の汗を拭う。
既に何度目かも分からない。
服は汗で張り付き、呼吸するだけで肺に熱気が流れ込んでくる。
まるで蒸し風呂だ。
灰崎も同じだった。
水を飲んでもすぐに喉が渇く。
立ち止まれば少しは楽になるが、今度は湿気がまとわりついてくる。
不快だった。
そして何より。
「風がないな」
灰崎が呟く。
木々が巨大すぎるのだ。
枝葉が空を覆い尽くし、空気の流れを止めている。
おかげで熱が籠もる。
森全体が巨大な温室みたいになっていた。
「こんな場所で暮らせるのか……?」
地図係がうんざりした顔で言う。
「暮らしてる奴はいるんだろ」
灰崎が返す。
「怠惰帝とか?」
「多分な」
サミエムは黙ったままだった。
先頭を歩いている。
周囲への警戒を怠らない。
だが会話にはほとんど参加しない。
灰崎はその背中を見る。
魂の色は少し落ち着いていた。
それでも完全ではない。
どこか引っ掛かっている。
妖精の件だろう。
本人も整理できていない。
だから灰崎も触れない。
今はまだ。
その時だった。
ガサッ。
三人が同時に反応する。
武器へ手を伸ばす。
だが現れたのは魔物ではなかった。
「……鳥?」
地図係が呟く。
巨大な鳥だった。
いや。
鳥というには少し奇妙だ。
羽毛ではなく葉が生えている。
翼を広げれば三メートルはあるだろう。
嘴の代わりに木の実のような硬い殻。
見たこともない生物だった。
そいつは三人を見る。
首を傾げる。
そして。
何事もなかったように木の実を啄み始めた。
「襲ってこないな」
「みたいだな」
灰崎は魂の色を見る。
穏やかだ。
警戒も敵意もない。
ただ生きているだけ。
それだけだった。
やがて鳥は飛び去る。
巨大な葉を撒き散らしながら。
「……普通の森じゃないな」
地図係が呟いた。
誰も否定しなかった。
しばらく進む。
汗を流しながら。
黙々と。
すると。
サミエムが再び立ち止まった。
「見つけた」
短い言葉。
二人が近付く。
そこには岩があった。
大きな岩。
その表面に。
一本の線。
傷。
「ナイフか」
灰崎が言う。
サミエムが頷く。
「諜報員の癖だ」
道標。
冒険者がよく使う技術。
迷った時のために印を残す。
「生きてるな」
地図係の顔が明るくなる。
また証拠が見つかった。
しかも今回は明確だった。
諜報員自身の意思。
生存している可能性がさらに高まる。
サミエムは岩を見る。
数秒。
何かを考えているようだった。
「進むぞ」
それだけ言って歩き出す。
灰崎も続く。
だが。
少しだけ気になった。
今の傷。
諜報員のものだ。
間違いない。
だが。
どこか焦ったような跡だった。
いつもの余裕がない。
そんな気がした。
気のせいかもしれない。
しかし。
嫌な予感は消えなかった。
さらに一時間ほど進んだ頃。
森に変化が現れ始める。
「……あれ?」
地図係が空を見る。
灰崎も視線を上げた。
違和感。
何かがおかしい。
熱気が弱まっている。
少しずつ。
本当に少しずつだが。
気温が下がっている。
「夕方か?」
地図係が言う。
だが。
空は変わらない。
太陽はない。
そもそも最初からなかった。
それなのに。
昼が終わろうとしている。
理由は分からない。
ただ。
森全体が変化していた。
蒸気が減る。
虫の声が消える。
鳥の姿がなくなる。
気配が変わる。
まるで。
森そのものが息を潜めているようだった。
「……静かだな」
灰崎が呟く。
返事はない。
三人とも感じていた。
何かが始まる。
そんな予感。
そして。
歩き続けた先で。
灰崎は見た。
遥か遠く。
森の向こう。
地平線の彼方。
小さな光。
赤い。
揺れている。
焚き火のようにも見える。
「村か?」
地図係が希望を込めて言う。
だが。
灰崎は何故か目を離せなかった。
魂の色は見えない。
距離が遠すぎる。
それでも。
本能が警鐘を鳴らしていた。
あれは違う。
そんな気がする。
光は一つだった。
だが。
次の瞬間。
もう一つ灯る。
赤い光。
並ぶ。
二つ。
まるで。
巨大な何かの瞳のように。
三人は立ち止まった。
誰も言葉を発しない。
そして。
ユグドラシルの昼が終わった。




