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【怠惰の章】残された痕跡

 森は静かだった。


 いや。


 静かすぎた。


 風の音がする。


 葉が揺れる音がする。


 遠くで鳥のような鳴き声も聞こえる。


 生命の気配は確かにある。


 だがそれでも。


 どこかおかしい。


 灰崎は周囲を見渡しながら歩いていた。


 巨大な木々。


 巨大な葉。


 巨大な蔦。


 何もかもが大きい。


 外界の常識が通用しない。


 そんな場所だった。


 落下から既に一時間ほど経っている。


 だが収穫はない。


 諜報員の姿も。


 声も。


 痕跡すら見つからなかった。


「……広すぎる」


 地図係が呟く。


 額の汗を拭いながら周囲を見る。


「普通に森を探すだけでも無理だぞこれ」


「分かってる」


 サミエムが短く答える。


 声に感情はない。


 だが。


 灰崎には分かった。


 魂の色が見えるからだ。


 揺れている。


 ずっと。


 あの妖精を斬った瞬間から。


 怒り。


 後悔。


 疑念。


 様々な色が混ざっている。


 表面上は冷静だ。


 だが内側は違う。


 かなり荒れている。


 灰崎は何も言わなかった。


 今言うべきではない。


 サミエム自身が整理しなければ意味がない。


 無理に言葉をぶつけても反発するだけだ。


 だから黙る。


 そして歩く。


 しばらく進んだ頃だった。


 サミエムが足を止めた。


「どうした?」


 地図係が尋ねる。


 サミエムは答えない。


 地面を見ている。


 灰崎も視線を落とした。


 そこには。


 足跡があった。


 人間のものではない。


 異様に大きい。


 地面が深く抉れている。


「魔物か」


「だろうな」


 サミエムがしゃがむ。


 跡を調べる。


「新しい」


「分かるのか?」


「分かる」


 即答だった。


「土がまだ潰れたばかりだ」


 地図係が顔をしかめる。


「つまり近くにいる?」


「可能性は高い」


 嫌な沈黙。


 だが。


 進むしかない。


 諜報員を探さなければならない。


 一行は再び歩き始めた。


 そして気付く。


 森の様子が少しずつ変わっている。


 木々の幹。


 地面。


 至る所に傷があった。


 爪痕。


 抉れた跡。


 折れた木。


 戦闘の痕跡にも見える。


「何か暴れたのか?」


 地図係が呟く。


 灰崎は木の幹へ触れた。


 傷は大きい。


 人間には不可能。


 剣でも無理だ。


 何か巨大な生物。


 それもかなりの力を持った存在。


 そうでなければ説明が付かない。


 その時。


 灰崎の視界に何かが映った。


 白い布。


 木の根元。


 落ちている。


 灰崎は近付いた。


 拾う。


 布切れだった。


 見覚えがある。


 諜報員のマント。


 間違いない。


「見つけた」


 声を上げる。


 二人が振り返る。


 サミエムが布を見る。


 そして目を細めた。


「生きてるな」


 即答だった。


「何で分かる?」


「これ」


 布を指差す。


 切れている。


 だが破れていない。


 刃物。


 それも短剣で切った跡だった。


 灰崎も気付く。


 確かにそうだ。


 落下で自然にこうはならない。


「自分で切ったのか」


「多分な」


 地図係の顔が明るくなる。


「じゃあ生きてる!」


 希望が見えた。


 落下直後から初めて。


 本当の意味で。


 生存の証拠が見つかった。


 だが。


 灰崎は違和感を覚えた。


 魂の色。


 サミエムを見る。


 喜びだけではない。


 安堵だけでもない。


 何か別の感情が混じっている。


 罪悪感。


 そんな色。


 本人も気付いていないかもしれない。


 だが。


 確かに存在していた。


 その時だった。


 地図係が声を上げる。


「おい」


 振り返る。


 地図係の顔色が悪い。


「これ見ろ」


 指差した先。


 地面。


 そこには。


 血があった。


 乾き始めている。


 だが量が多い。


 かなり多い。


 そして。


 その周囲には。


 巨大な爪痕。


 地面ごと抉り取られている。


 木も折れていた。


 戦闘。


 それも激しい。


 灰崎は周囲を見る。


 魂の気配はない。


 既に終わっている。


 だが。


 残された痕跡だけで分かる。


 ここで何かが起きた。


 そして。


 かなり危険な何かだった。


 地図係が唾を飲み込む。


「……これ」


 言葉が続かない。


 サミエムは黙っていた。


 血痕を見る。


 爪痕を見る。


 折れた木を見る。


 そして。


 ゆっくりと立ち上がった。


「追う」


 短い言葉。


 だが迷いはなかった。


「まだ死んだと決まったわけじゃない」


 そう言って歩き出す。


 灰崎も続く。


 地図係も続いた。


 希望はある。


 だが同時に。


 確実な不安もあった。


 この森にはいる。


 諜報員を追い詰めるほどの何かが。


 そして。


 その何かは今も近くにいるかもしれなかった。

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