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【怠惰の章】森の洗礼

 ズシン。


 ズシン。


 ズシン。


 森の奥から響く重低音。


 足音。


 そう呼ぶにはあまりにも巨大だった。


 地面が揺れる。


 木々が震える。


 葉が舞う。


 一歩ごとに空気まで振動しているようだった。


 灰崎はゆっくりと身を起こす。


 身体のあちこちが痛い。


 だが骨は折れていない。


 奇跡的だった。


 いや。


 あの光る種子のおかげなのだろう。


 普通なら助からない高さだった。


「全員無事か」


 サミエムが周囲を見渡す。


「多分……」


 地図係が手足を動かす。


「生きてる」


「残念だったな」


「二回目だぞその冗談」


 だが誰も笑わない。


 諜報員がいない。


 その事実が全員の頭に残っていた。


 サミエムは森の奥を見る。


 表情は変わらない。


 だが灰崎には見える。


 魂の色。


 濁っていた。


 迷い。


 苛立ち。


 焦燥。


 そして。


 僅かな後悔。


 妖精を斬ったことか。


 諜報員を失ったと思っていることか。


 あるいは両方か。


 灰崎には分からない。


 ただ一つだけ分かる。


 今のサミエムは機嫌が最悪だ。


 その時。


 再び。


 ズシン。


 大地が揺れた。


 今度は近い。


 かなり近い。


「おい」


 地図係の顔色が変わる。


「近付いてきてないか?」


「近付いてるな」


 サミエムが即答する。


「逃げるか?」


「いや」


 首を振る。


「まず見る」


 それがサミエムだった。


 敵か。


 脅威か。


 確認する。


 それから決める。


 全員が息を潜める。


 森は異様だった。


 木々が大きい。


 いや。


 大きいという表現では足りない。


 一本一本が塔みたいだった。


 幹の直径だけで家が建ちそうなほど太い。


 枝は空を覆い。


 葉は人間の身体ほどもある。


 草ですら腰の高さを超えていた。


 全てが巨大。


 全てが規格外。


 外界とは別の生態系。


 そんな印象を受ける。


 灰崎は周囲を見る。


 魂の色。


 至る所に存在していた。


 獣。


 鳥。


 虫。


 植物ですら。


 外界より遥かに濃い。


 生命力そのものが違う。


(何だよここ……)


 思わず息を呑む。


 その時だった。


 木々の向こうで何かが動いた。


 巨大な影。


 葉の隙間から覗く褐色の塊。


 そして。


 一本の脚。


 樹木みたいに太い。


 ズシン。


 地面が揺れる。


 もうかなり近い。


「……でかいな」


 地図係が呟く。


 声が震えている。


 無理もない。


 姿の一部しか見えないのに。


 それだけで圧倒される。


 やがて。


 巨体が森の向こうから現れた。


 全員が固まる。


「は?」


 地図係の口から間抜けな声が漏れた。


 無理もない。


 目の前にいたのは。


 鹿だった。


 ただし。


 大きさが異常だった。


 肩までの高さだけで十メートル近い。


 角は枝分かれしながら空へ伸びている。


 全身を苔が覆い。


 背中には小さな木まで生えていた。


 歩くたびに草花が揺れる。


 森そのものが歩いているような存在。


「魔物……か?」


 地図係が呟く。


「違うな」


 灰崎が首を振る。


 魂の色を見る。


 敵意がない。


 警戒もない。


 ただ生きている。


 それだけ。


 巨大鹿は一行へ視線を向けた。


 黒い瞳。


 数秒。


 見つめる。


 だが。


 興味を失ったように顔を逸らした。


 そして歩き去る。


 ズシン。


 ズシン。


 ズシン。


 やがて森の奥へ消えていった。


 静寂。


 誰もすぐには喋れなかった。


「……今の何だ?」


 地図係が聞く。


「知らん」


 サミエムが答える。


「知らんって」


「知らんものは知らん」


 その通りだった。


 誰も知らない。


 見たこともない。


 図鑑にも載っていないだろう。


 だが。


 全員理解した。


 ここは外界じゃない。


 自分たちが知る常識は通用しない。


 そんな場所だ。


 その時。


 灰崎がふと足元を見る。


 何かが落ちていた。


 羽根。


 白い羽根。


 小さい。


 妖精の羽根に似ている。


 灰崎はそれを拾い上げた。


 そして黙る。


 誰にも見せない。


 何故か分からない。


 だが。


 捨てる気にはなれなかった。


 あの妖精は本当に敵だったのか。


 そんな考えが頭をよぎる。


 サミエムを見る。


 本人は何も言わない。


 だが。


 あの一件はまだ終わっていない。


 灰崎はそう確信していた。


「とりあえず」


 サミエムが口を開く。


「諜報員を探す」


 即答だった。


 迷いがない。


 それを聞いて地図係が安堵する。


「だよな」


「あいつが生きてる保証はない」


 サミエムが続ける。


「だが死んだとも決まっていない」


 そこで一度言葉を切った。


 そして森の奥を見る。


「確認する」


 それだけだった。


 だが灰崎には分かった。


 サミエムは諦めていない。


 少なくとも今は。


 そして。


 一行は歩き出す。


 未知の森。


 未知の世界。


 ユグドラシルの深部。


 その第一歩を踏み出した。


 誰も知らない。


 数時間後。


 彼らが再会することになる諜報員が。


 今まさに。


 この森で最悪の存在に遭遇していることを。

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