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【怠惰の章】落下の果て

 風が唸っていた。


 耳を裂くような轟音。


 身体が浮く感覚。


 胃が持ち上がる不快感。


 そして終わりの見えない落下。


「うおおおおおおおおおお!?」


 地図係の絶叫が響く。


「叫ぶな! 耳が痛い!」


 灰崎も怒鳴り返す。


「落ちながらそんなこと言う余裕あるのかよ!?」


「ない!」


「どっちだよ!!」


 こんな状況なのに妙な会話が成立しているのが逆に恐ろしかった。


 諜報員は――


 いない。


 少なくとも見えない。


 闇に飲まれたままだ。


 灰崎は下を見る。


 大地。


 あの巨大な大地が少しずつ近付いている。


 だがまだ遠い。


 遠すぎる。


 普通ならとっくに死んでいる高さだ。


「サミエム!」


 叫ぶ。


「分かってる!」


 返事。


 風にかき消されそうになりながらも届く。


 サミエムは既に剣を抜いていた。


 周囲の岩壁へ視線を走らせている。


 着地方法を探しているのだろう。


 生き残るために。


 だが。


「無理だ!」


 灰崎が叫ぶ。


「距離が遠すぎる!」


 壁面まで届かない。


 何かに掴まることも出来ない。


 落下速度も増している。


 このままでは地面へ叩きつけられる。


 死ぬ。


 本当に。


 普通なら。


 だが。


「下を見ろ!」


 サミエムが叫んだ。


 灰崎は見る。


 そして気付く。


「……あ?」


 違和感。


 大地が近付いている。


 だが。


 何かがおかしい。


 速度。


 落下速度が。


 遅くなっていた。


 いや。


 正確には。


 空気が変わっている。


 緑色の粒子。


 光。


 無数の発光体。


 それが周囲を漂い始めていた。


 まるで蛍。


 いや。


 種子だ。


 植物の種。


 光る種。


 その群れが落下する一行を包み込んでいる。


「何だこれ……」


 地図係が呆然と呟く。


 答える者はいない。


 誰も知らないからだ。


 だが。


 確かなことが一つ。


 落下速度がどんどん落ちている。


 さっきまで暴風だった風圧が弱くなっていく。


 身体も安定する。


 まるで。


 見えない何かが支えているみたいに。


「妖精か……?」


 灰崎が呟いた。


 誰にも聞こえない。


 だが脳裏には白い妖精の姿が浮かんでいた。


 役目を終えた魂の色。


 安堵。


 満足。


 もし。


 本当に入口まで導くだけだったなら。


 この落下さえ。


 最初から計算されていたのかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎる。


 そして。


 視線が自然とサミエムへ向いた。


 サミエムは何も言わない。


 ただ黙って下を見ていた。


 表情も見えない。


 だが。


 灰崎には分かる。


 魂の色が見えるからだ。


 揺れている。


 強く。


 激しく。


 妖精を斬った瞬間よりも。


 諜報員が落ちた瞬間よりも。


 今の方が。


 ずっと。


(気付いたか)


 灰崎は思う。


 全部ではない。


 だが。


 自分が何かを間違えた可能性には。


 気付いている。


 サミエムは馬鹿じゃない。


 むしろ鋭い。


 だからこそ。


 一度気付いてしまえば自分自身を誤魔化せない。


 だが。


 今は何も言わない。


 言うべきじゃない。


 灰崎は視線を外した。


 その時だった。


「おい」


 地図係の声。


 震えている。


「何だ」


「見ろよ……」


 灰崎も視線を向ける。


 そして。


 息を呑んだ。


 近付いている。


 大地が。


 いや。


 近付いたからこそ分かる。


 おかしい。


 本当に。


 おかしい。


 山脈がある。


 巨大な森がある。


 湖がある。


 川が流れている。


 だが。


 その規模。


 その密度。


 その生命力。


 どれも常識から外れていた。


 森の木々は普通の数倍。


 いや数十倍。


 山脈も異常に大きい。


 湖には巨大な影が泳いでいる。


 鳥が飛んでいる。


 その鳥ですら異常な大きさだった。


「何だよ……ここ……」


 地図係が呟く。


 誰も答えない。


 答えられない。


 ただ。


 全員が同じことを思っていた。


 ここは外界じゃない。


 別世界だ。


 人間が生きる世界とは違う。


 別の法則で成り立っている。


 そんな感覚。


 そして。


 さらに近付く。


 地面。


 いや。


 森。


 着地点らしき場所が見えてきた。


 巨大な樹海。


 見渡す限り緑。


 その中心へ向かって落ちていく。


「来るぞ!」


 サミエムが叫ぶ。


 全員が身構える。


 衝撃に備える。


 そして。


 落下は終わった。


 ドサァァァァァァッ!!


 大量の葉が舞う。


 枝が折れる。


 蔦が絡まる。


 身体が何度も跳ねる。


 転がる。


 叩きつけられる。


 そして。


 止まった。


 静寂。


 風の音。


 遠くで鳴く獣の声。


 湿った土の匂い。


 灰崎は仰向けのまま空を見る。


 空ではない。


 天井だ。


 遥か上。


 見えないほど遠い場所に穴の光がある。


「生きてる……」


 思わず呟く。


「残念だったな」


 サミエムの声。


 近い。


 無事らしい。


「その冗談今言うか?」


「今だからだ」


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 空気が和らぐ。


 だが。


 次の瞬間。


 全員がある事実に気付いた。


 沈黙。


 重い沈黙。


 地図係がゆっくり周囲を見回す。


「……なぁ」


 誰も答えない。


「諜報員は?」


 静寂。


 誰もいない。


 落下前に消えたまま。


 姿がない。


 返事もない。


 サミエムが拳を握る。


 灰崎は黙る。


 そして。


 森の奥から。


 ズシン。


 何かが歩く音が響いた。


 巨大な何か。


 遠い。


 だが分かる。


 この森には。


 自分たちの常識が通用しない生物がいる。


 その事実だけは。


 嫌というほど伝わってきた。

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