【怠惰の章】根下の門(三)
空気が変わった。
それは比喩じゃなかった。
湿気を含んだ熱気が、一瞬で重くなる。
肺へ入り込む空気そのものに質量が生まれたみたいに、呼吸が鈍る。
地下の奥。
緑の闇。
その向こうで、何かが動いた。
巨大。
それだけで分かる。
まだ輪郭すら見えない。
なのに身体が理解する。
これは危険だ、と。
理屈より先に本能が警鐘を鳴らしていた。
小妖精たちの羽音が一瞬だけ乱れる。
ビィィィ……
ざわつき。
統率。
命令。
そんな気配。
そして次の瞬間。
再び群れが押し寄せた。
「来る!」
灰崎が叫ぶ。
同時。
前。
左。
上。
三方向。
速い。
目で追えば遅れる。
だが。
(見える)
羽。
止まる。
一瞬。
ほんの一拍。
攻撃直前。
空中制御のために静止する。
そこだ。
「右上、二!」
叫ぶ。
サミエムが振る。
銀閃。
斬撃。
小妖精が砕け散る。
樹液の匂い。
木片。
肉じゃない。
血もない。
植物。
あるいは魔法生物。
「左!」
「魂鎖!」
青白い糸。
小妖精の身体へ巻き付く。
止まる。
一瞬。
本当に一瞬。
だが十分。
槍が貫く。
地図係の短剣が叩き落とす。
連携。
噛み始めていた。
「行ける!」
誰かが叫ぶ。
灰崎は首を振る。
「違う!」
その時。
真正面。
わざと速度を落とした一体。
囮。
反射的に視線を取られる。
直後。
死角。
後ろ。
二体。
「後ろ!」
諜報員が悲鳴を上げる。
間に合わない。
灰崎が歯を食いしばる。
「――魂を縛れ、魂鎖!」
二重発動。
青白い糸が弾ける。
止まる。
一瞬。
だが間に合う。
サミエムの剣。
一閃。
砕ける。
「……今の」
サミエムが低く言う。
「誘導だ」
「だな」
灰崎が息を吐く。
見えてきた。
試験。
そういうことだ。
理不尽じゃない。
法則。
突破口。
必ずある。
こいつら。
真正面は弱い。
死角を取る。
連携する。
そして。
囮を混ぜる。
「逆に言えば」
灰崎が叫ぶ。
「真正面から来る奴は罠!」
「死角優先か!」
サミエム。
理解が早い。
すぐ動く。
剣筋が変わる。
前を切らない。
見る。
待つ。
死角。
羽が止まる瞬間。
そこだけ狩る。
結果。
群れの速度が急激に落ちた。
砕ける。
砕ける。
砕ける。
そして。
初めて。
押し返した。
「……効いてる!」
地図係が叫ぶ。
小妖精たちが後退する。
羽音が乱れる。
迷い。
いや。
困惑。
命令系統が崩れたみたいだった。
灰崎は目を細める。
魂。
薄い。
でも。
少しだけ揺れた。
恐怖じゃない。
評価。
選別。
(やっぱ試験だ)
殺すなら物量で潰せた。
なのにしない。
急所だけ狙う。
でも追撃しない。
殺意が薄い。
侵入者確認。
力量測定。
そう考える方が自然だった。
その時。
チリン。
鈴。
案内妖精。
初めてだった。
灰崎たちの方へ少し近づく。
逃げない。
見ている。
静かに。
そして。
地下奥。
ズン。
地面が震えた。
小妖精たちが止まる。
一斉。
動きを止める。
空中で静止。
まるで敬礼。
あるいは畏怖。
圧。
増した。
呼吸が苦しい。
冷や汗。
心臓が重い。
見えない。
なのに分かる。
“上”だ。
絶対に。
生物として格が違う。
「……来るぞ」
サミエムが剣を構え直す。
声が少し低い。
緊張。
でも。
さっきまでの焦燥とは違った。
戦闘へ集中している色。
灰崎は少しだけ安堵する。
その時だった。
緑の闇。
奥。
巨大な影が。
ゆっくり姿を現した。
最初に見えたのは。
羽。
だった。
森そのものみたいな。
巨大な半透明の翅。
淡い緑光を纏い。
空間を覆うほど大きい。
次に。
腕。
人型に近い。
だが樹皮。
蔦。
花。
苔。
森の全てで構成された身体。
そして。
顔。
美しい。
だが。
恐ろしい。
目が。
あまりにも静かだった。
人を見る目じゃない。
虫を見る目でもない。
――森に入った異物を見る目。
その巨大な存在が。
静かに口を開いた。
声はなかった。
だが。
頭へ直接響く。
『資格を示せ』




