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【怠惰の章】根下の門

 ズン。


 腹の奥を直接叩かれるような振動だった。


 空気が震える。


 足元の根が低く唸り、靴裏から嫌な響きが伝わってくる。


 若木の周囲。


 土がゆっくり盛り上がり始めていた。


 盛り上がる、という表現では足りない。


 押し上げられている。


 地中から。


 巨大な何かが、ゆっくりと身体を起こそうとしているような――そんな圧だった。


「……おい」


 誰かが乾いた声を漏らす。


 誰も動かない。


 剣も。


 槍も。


 構えることすら忘れた。


 若木。


 さっきまでただの貧弱な苗木にしか見えなかったそれが、今は異様に見えた。


 葉は数枚。


 細い幹。


 頼りない。


 なのに。


 近くに立つほど理解が壊れる。


 小さい。


 なのに巨大。


 軽い。


 なのに重い。


 見えているのに。


 認識が拒絶する。


 頭が処理を嫌がっていた。


 灰崎はゆっくりしゃがみ込み、足元へ手を当てた。


 熱。


 じわり、と掌へ広がる。


 湿気混じりの生温さではない。


 もっと深い。


 血管。


 筋肉。


 何か巨大な生命の体温に近い。


 そして。


 微かな振動。


 ドクン。


 ドクン。


 脈打つ。


(……生きてる)


 地面じゃない。


 森でもない。


 もっと別。


 巨大生物。


 そんな嫌な直感が脳裏をよぎる。


 背筋に寒気が走った。


「灰崎」


 サミエムの声。


 短い。


 いつも通り。


 だが少し掠れている。


「敵か」


「……いや」


 灰崎は視線を上げた。


 妖精。


 若木の前。


 静かに浮いている。


 逃げない。


 慌てない。


 警戒もしない。


 鈴だけが鳴る。


 チリン。


 チリン。


 落ち着け、と言うように。


「敵なら、あいつがあんな顔してねぇ」


「顔あるか?」


 地図係の女が疲れた声で突っ込む。


「雰囲気だよ」


 少し笑いが漏れる。


 本当に少し。


 疲れ切った笑い。


 蒸樹蛇との戦闘後だ。


 誰も余裕はない。


 服は汗で張り付き、息は浅い。


 湿度が肺へまとわりつく。


 熱気で体温が奪われない。


 疲労だけが積み重なる。


 この森は戦わなくても人を削る。


 灰崎自身も足が重かった。


 魂鎖は軽い術。


 だが連発すれば負荷はある。


 頭が少し鈍い。


 目の奥が熱い。


 そしてなにより。


 ずっと緊張しっぱなしだった。


 法則。


 罠。


 追跡。


 蒸樹蛇。


 休まる暇がない。


 それでも。


 妖精は止まらない。


 今も。


 待っている。


「……なぁ」


 灰崎がぽつりと言う。


「ここまで来て思ったんだけど」


「何だ」


 サミエム。


「この森、意外と優しくね?」


「は?」


 一斉に変な顔をされた。


「いや、正確には違うか」


 言葉を探す。


「全部ヒントあるんだよ」


 根の削れ。


 湿気。


 魔物の数。


 妖精の距離。


 道。


 静けさ。


 全部。


 考えれば分かった。


「本当に殺す気なら、もっと理不尽に出来た」


 サミエムが少し考える。


「……試験」


「そう」


 灰崎が頷く。


「選ばせてる」


 進むか。


 引くか。


 考えるか。


 死ぬか。


 それを。


 ずっと試していた。


「つまり」


 地図係が肩を竦める。


「今のこれは最終試験?」


 誰も答えなかった。


 その瞬間。


 ズズズズ……。


 地面が開いた。


 いや。


 根が動いた。


 若木の周囲。


 円形に走る巨大な根脈が、ゆっくり左右へ割れる。


 花弁。


 そう見えた。


 巨大な木が咲く。


 そんな異様な光景。


 ミシ。


 ミシミシ。


 軋み。


 湿った音。


 地中から吹き上がる熱風。


 獣の吐息みたいだった。


 熱い。


 湿っている。


 深い森の匂い。


 水。


 土。


 樹液。


 命。


 全部が混ざった匂い。


「……おい」


 壮年の諜報員が息を呑む。


「穴だ」


 違う。


 穴というより。


 門だった。


 地下へ続く巨大な通路。


 底は見えない。


 だが暗闇ではない。


 奥。


 深く。


 緑の淡い光が漂っている。


 夜の森みたいな色。


 幻想的。


 なのに。


 怖い。


 圧迫感が酷い。


 胃が沈む。


 何か巨大な生物の口へ入る感覚。


「……入口」


 灰崎が呟く。


 若木を見る。


 理解する。


 葉じゃない。


 苗木じゃない。


 鍵だ。


 地上では小さい。


 だが地下で巨大。


 伝承。


 移動する大樹。


 幻の理想郷。


 ユグドラシル。


「マジであったのかよ……」


 誰かが呟いた。


 その時だった。


 妖精が下へ降りた。


 ゆっくり。


 通路の中。


 途中で止まり。


 振り返る。


 待つ。


 今までと違った。


 試すじゃない。


 誘う。


 ――来い。


 明確だった。


 サミエムが一歩出る。


「行く」


「待て」


 灰崎が腕を掴んだ。


 少し強めに。


 サミエムが眉を寄せる。


「何だ」


「お前、無理してる」


「問題ない」


「問題ある」


 少し沈黙。


 湿った風。


 暗闇。


 そして灰崎は言った。


「焦りすぎだろ」


 ぴくり。


 魂の色が揺れた。


 焦燥。


 責任。


 喪失。


「師匠死んだからって、今死に急いでどうすんだ」


 サミエムが目を逸らした。


 ほんの少し。


「……止まったら」


 声が小さい。


「追いつけなくなる気がする」


 またそれだ。


 灰崎は少し眉を寄せる。


「誰にだよ」


「強さに」


 短い答え。


 痛々しいほど真っ直ぐだった。


 その瞬間。


 ぞわり、と空気が変わる。


 下。


 暗闇。


 緑の光。


 その奥。


 何かが灯った。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 無数。


 目だった。


 小さい。


 だが数が異常。


 ぎっしり。


 暗闇に浮く。


 一斉にこちらを見る。


 そして。


 チリン。


 妖精の鈴。


 初めてだった。


 少しだけ急かすように鳴った。


 次の瞬間。


 羽音。


 爆音。


 暗闇から無数の影が飛び出した。


「――構えろッ!!」

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