【怠惰の章】霧根の道(十二)
チリン。
鈴の音が、やけに近かった。
霧へ滲むような小さな光が、灰崎のすぐ目の前を漂っている。
妖精。
白い羽。
透ける輪郭。
森そのものが気まぐれで形を持ったみたいな存在。
そして。
今までとは、距離が違った。
「……近くね?」
灰崎が思わず言う。
返答はない。
当然だ。
ただ妖精はふわりと宙へ浮き、静かに進み始めた。
止まらない。
振り返らない。
今までみたいに、わざと見失わせることもない。
追えば届く。
届くけど掴めない。
そんな絶妙な距離。
それが急に変わった。
まるで。
――試験終了。
そう告げるように。
「……なんか態度変わったな」
地図係の女が眉をひそめる。
「さっきまで、“来れるもんなら来てみろ”感あったのに」
「評価されたんじゃないか」
壮年の諜報員が息を整えながら言った。
汗で髪が張り付き、肩で息をしている。
蒸樹蛇との戦闘直後だ。
誰も余裕がない。
湿気。
疲労。
熱。
全身が鉛みたいに重かった。
灰崎も壁代わりの根へ背を預け、小さく息を吐く。
喉が乾く。
肺が熱い。
魂鎖。
魔力消費は軽い。
だが、戦闘中に何度も使えば積もる。
頭が少し重い。
そしてなにより。
この森。
体力を削ってくる。
湿度が高すぎる。
呼吸が浅くなる。
汗が引かない。
歩くだけで疲れる。
「灰崎」
サミエムが短く呼ぶ。
振り向く。
剣を肩へ担いでいた。
顔色は良くない。
額の汗。
浅い呼吸。
疲れている。
それなのに立ち姿だけは崩れない。
妙に真っ直ぐ。
危ういほど。
「……大丈夫か?」
灰崎が聞く。
「問題ない」
即答。
だが魂の色が違った。
焦燥。
責任感。
恐怖。
そして。
自責。
色が荒れている。
師匠を守れなかった。
敗北した。
嫉妬帝に届かなかった。
その感情を全部、押し潰して歩いている。
元々合理主義ではない。
だからこそ危うい。
無理を理屈で塗り固め始めている。
「……問題ありそうにしか見えねぇ」
ぼそりと漏れる。
サミエムは聞こえなかったふりをした。
いや。
聞こえていて無視した。
「行く」
短く言って歩き出す。
止まらない。
止まれない。
そんな背中だった。
灰崎は小さく舌打ちし、後を追う。
妖精が進む。
チリン。
チリン。
鈴だけが鳴る。
そして。
森が変わっていた。
静か。
異様なほど。
「……魔物いねぇな」
灰崎が呟く。
蒸樹蛇戦までとは別世界だった。
羽虫。
鳴き声。
気配。
何もない。
風すら弱い。
ただ湿った熱だけが身体へまとわりつく。
森が息を止めているみたいだった。
「縄張りだろうな」
壮年の諜報員が言う。
「強い奴がいる」
「それも相当上」
別の男が喉を鳴らす。
「蒸樹蛇が消えた理由も説明つく」
灰崎は少し考える。
法則。
この森には法則がある。
魔物の数。
湿気。
足場。
削れ方。
妖精の動き。
全部繋がっている。
「……安全そうな場所ほど、逆にヤバいのかもな」
「どういう意味だ」
サミエムが歩きながら聞く。
「今までって危険が見えてたろ」
灰崎は指を折る。
「滑る根」
「傷だらけの道」
「蒸樹蛇の痕跡」
「見えてた」
そして周囲を見る。
「でも今は何もない」
静か。
綺麗。
穏やか。
だから怖い。
「上位種の縄張りって、逆に平和なんだよ」
誰かが息を呑む。
確かにそうだ。
弱い生物がいなくなる。
争いも減る。
静かになる。
頂点がいる場所ほど静か。
それは自然界でも同じ。
「……嫌なこと言うな」
地図係が顔をしかめた。
妖精は止まらない。
チリン。
チリン。
霧が少しずつ薄くなる。
代わりに。
空気が重くなった。
押し潰されるような。
圧。
巨大なものへ近づいている感覚。
根も変わっていた。
太い。
異常に。
一本一本がもはや崖だ。
熱もある。
湿りの中に生温さが混じる。
灰崎が足元へ触れる。
「……熱」
掌がじんわり熱を持つ。
生きている。
そんな感覚。
血管。
脈。
巨大な循環。
まるで森の身体の上を歩いているみたいだった。
その時。
「止まれ」
サミエムが低く言う。
全員止まる。
視界。
霧が晴れる。
そして。
「……は?」
誰かが呟いた。
中央。
ぽつんと。
小さな若木。
背丈ほど。
葉が数枚。
頼りない。
今にも折れそう。
拍子抜けするほど小さい。
「これ……?」
地図係が眉をひそめる。
「ゴール?」
「んな訳」
言いかけて灰崎が止まる。
違和感。
凄まじい。
魂の色が――見えない。
生命なのに。
なのに。
存在感だけが異常だった。
頭が拒絶する。
理解できない。
小さい。
なのに巨大。
近い。
なのに遠い。
感覚が壊れる。
「……下だ」
灰崎がぽつりと言った。
「え?」
「下にある」
しゃがむ。
根へ触れる。
熱。
さっきより強い。
奥。
深く。
巨大な何かが流れている。
規模が違う。
山。
いや。
もっとだ。
「これ、葉っぱじゃない」
自分でも意味不明な言葉が出る。
「入口だ」
チリン。
鈴。
妖精が若木の前で止まった。
そして。
初めて。
振り返る。
待つ。
いや。
選ばせる。
――来るか?
そんな空気。
次の瞬間。
ズン。
と。
地面が揺れた。
誰かが悲鳴を上げる。
根が軋む。
土が震える。
若木の周囲。
地面がゆっくり盛り上がり始めた。
内側から。
何か巨大なものが。
目覚めるように。




