↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
177/309

【怠惰の章】霧根の道(十二)

 チリン。


 鈴の音が、やけに近かった。


 霧へ滲むような小さな光が、灰崎のすぐ目の前を漂っている。


 妖精。


 白い羽。


 透ける輪郭。


 森そのものが気まぐれで形を持ったみたいな存在。


 そして。


 今までとは、距離が違った。


「……近くね?」


 灰崎が思わず言う。


 返答はない。


 当然だ。


 ただ妖精はふわりと宙へ浮き、静かに進み始めた。


 止まらない。


 振り返らない。


 今までみたいに、わざと見失わせることもない。


 追えば届く。


 届くけど掴めない。


 そんな絶妙な距離。


 それが急に変わった。


 まるで。


 ――試験終了。


 そう告げるように。


「……なんか態度変わったな」


 地図係の女が眉をひそめる。


「さっきまで、“来れるもんなら来てみろ”感あったのに」


「評価されたんじゃないか」


 壮年の諜報員が息を整えながら言った。


 汗で髪が張り付き、肩で息をしている。


 蒸樹蛇との戦闘直後だ。


 誰も余裕がない。


 湿気。


 疲労。


 熱。


 全身が鉛みたいに重かった。


 灰崎も壁代わりの根へ背を預け、小さく息を吐く。


 喉が乾く。


 肺が熱い。


 魂鎖。


 魔力消費は軽い。


 だが、戦闘中に何度も使えば積もる。


 頭が少し重い。


 そしてなにより。


 この森。


 体力を削ってくる。


 湿度が高すぎる。


 呼吸が浅くなる。


 汗が引かない。


 歩くだけで疲れる。


「灰崎」


 サミエムが短く呼ぶ。


 振り向く。


 剣を肩へ担いでいた。


 顔色は良くない。


 額の汗。


 浅い呼吸。


 疲れている。


 それなのに立ち姿だけは崩れない。


 妙に真っ直ぐ。


 危ういほど。


「……大丈夫か?」


 灰崎が聞く。


「問題ない」


 即答。


 だが魂の色が違った。


 焦燥。


 責任感。


 恐怖。


 そして。


 自責。


 色が荒れている。


 師匠を守れなかった。


 敗北した。


 嫉妬帝に届かなかった。


 その感情を全部、押し潰して歩いている。


 元々合理主義ではない。


 だからこそ危うい。


 無理を理屈で塗り固め始めている。


「……問題ありそうにしか見えねぇ」


 ぼそりと漏れる。


 サミエムは聞こえなかったふりをした。


 いや。


 聞こえていて無視した。


「行く」


 短く言って歩き出す。


 止まらない。


 止まれない。


 そんな背中だった。


 灰崎は小さく舌打ちし、後を追う。


 妖精が進む。


 チリン。


 チリン。


 鈴だけが鳴る。


 そして。


 森が変わっていた。


 静か。


 異様なほど。


「……魔物いねぇな」


 灰崎が呟く。


 蒸樹蛇戦までとは別世界だった。


 羽虫。


 鳴き声。


 気配。


 何もない。


 風すら弱い。


 ただ湿った熱だけが身体へまとわりつく。


 森が息を止めているみたいだった。


「縄張りだろうな」


 壮年の諜報員が言う。


「強い奴がいる」


「それも相当上」


 別の男が喉を鳴らす。


「蒸樹蛇が消えた理由も説明つく」


 灰崎は少し考える。


 法則。


 この森には法則がある。


 魔物の数。


 湿気。


 足場。


 削れ方。


 妖精の動き。


 全部繋がっている。


「……安全そうな場所ほど、逆にヤバいのかもな」


「どういう意味だ」


 サミエムが歩きながら聞く。


「今までって危険が見えてたろ」


 灰崎は指を折る。


「滑る根」


「傷だらけの道」


「蒸樹蛇の痕跡」


「見えてた」


 そして周囲を見る。


「でも今は何もない」


 静か。


 綺麗。


 穏やか。


 だから怖い。


「上位種の縄張りって、逆に平和なんだよ」


 誰かが息を呑む。


 確かにそうだ。


 弱い生物がいなくなる。


 争いも減る。


 静かになる。


 頂点がいる場所ほど静か。


 それは自然界でも同じ。


「……嫌なこと言うな」


 地図係が顔をしかめた。


 妖精は止まらない。


 チリン。


 チリン。


 霧が少しずつ薄くなる。


 代わりに。


 空気が重くなった。


 押し潰されるような。


 圧。


 巨大なものへ近づいている感覚。


 根も変わっていた。


 太い。


 異常に。


 一本一本がもはや崖だ。


 熱もある。


 湿りの中に生温さが混じる。


 灰崎が足元へ触れる。


「……熱」


 掌がじんわり熱を持つ。


 生きている。


 そんな感覚。


 血管。


 脈。


 巨大な循環。


 まるで森の身体の上を歩いているみたいだった。


 その時。


「止まれ」


 サミエムが低く言う。


 全員止まる。


 視界。


 霧が晴れる。


 そして。


「……は?」


 誰かが呟いた。


 中央。


 ぽつんと。


 小さな若木。


 背丈ほど。


 葉が数枚。


 頼りない。


 今にも折れそう。


 拍子抜けするほど小さい。


「これ……?」


 地図係が眉をひそめる。


「ゴール?」


「んな訳」


 言いかけて灰崎が止まる。


 違和感。


 凄まじい。


 魂の色が――見えない。


 生命なのに。


 なのに。


 存在感だけが異常だった。


 頭が拒絶する。


 理解できない。


 小さい。


 なのに巨大。


 近い。


 なのに遠い。


 感覚が壊れる。


「……下だ」


 灰崎がぽつりと言った。


「え?」


「下にある」


 しゃがむ。


 根へ触れる。


 熱。


 さっきより強い。


 奥。


 深く。


 巨大な何かが流れている。


 規模が違う。


 山。


 いや。


 もっとだ。


「これ、葉っぱじゃない」


 自分でも意味不明な言葉が出る。


「入口だ」


 チリン。


 鈴。


 妖精が若木の前で止まった。


 そして。


 初めて。


 振り返る。


 待つ。


 いや。


 選ばせる。


 ――来るか?


 そんな空気。


 次の瞬間。


 ズン。


 と。


 地面が揺れた。


 誰かが悲鳴を上げる。


 根が軋む。


 土が震える。


 若木の周囲。


 地面がゆっくり盛り上がり始めた。


 内側から。


 何か巨大なものが。


 目覚めるように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。