【怠惰の章】霧根の道(十一)
ギィィィィィッ!!
蒸樹蛇の絶叫が霧へ響いた。
大型個体の身体が大きく痙攣する。
サミエムの剣は、樹皮めいた装甲の継ぎ目へ深く食い込んでいた。
蒸気が噴き出す。
白。
熱。
視界がまた塗り潰される。
「下がれッ!」
灰崎が叫ぶ。
直後。
ブン、と空気が唸った。
巨大な尾。
薙ぎ払い。
蒸気の向こうから飛び出してきたそれを、サミエムが反射的に剣で受ける。
激突。
鈍い衝撃音。
根が軋む。
「っ……!」
足元が滑る。
湿気。
断崖。
最悪の足場。
サミエムの身体が半歩流れた。
その背後は、白い奈落。
灰崎の喉が冷える。
「サミエム!」
「問題ない!」
問題あるだろ。
そう怒鳴りたかった。
だが、その余裕がない。
霧の中でまた動く。
小型。
二体。
三体。
いや四。
蒸樹蛇の群れが、じりじりと距離を詰めていた。
大型個体が前。
小型が死角。
連携。
厄介だった。
「こいつら頭回るな……!」
地図係の女が舌打ちする。
蒸樹蛇は低く唸る。
ギィ……
裂けた花弁みたいな口が開く。
熱い息。
蒸気。
威嚇。
いや違う。
狩りだ。
こっちを追い込んでいる。
左右は断崖。
逃げ道は一本道。
押せば落ちる。
(環境利用型……!)
灰崎は息を吐く。
魂の色を見る。
灰。
静かな灰。
揺れが少ない。
怒りも薄い。
興奮も少ない。
ただ狩る。
ただ捕食する。
感情というより習性。
だから逆に読みづらい。
……いや。
違う。
読める。
読めるものもある。
動き。
予備動作。
大型個体。
蒸気を吐く前。
身体が少し縮む。
尾を振る前。
体幹が右へ寄る。
そして。
移動。
必ず。
滑りにくい根を踏む。
「……そういうことか」
ぽつりと呟く。
法則。
また法則だ。
森は全部隠している。
だが完全には隠さない。
見れば分かる。
考えれば辿り着ける。
妖精の試験。
今もそう。
「灰崎!」
サミエムの声。
大型蒸樹蛇が突進していた。
速い。
馬サイズの身体とは思えない。
湿気を裂いて一直線。
牙。
喰らえば終わる。
「右行くな!」
灰崎が叫ぶ。
「左!」
「は?」
「いいから!」
サミエムが反射で動く。
左へ。
直後。
大型蒸樹蛇の身体が右へ滑った。
ズルッ。
湿った根。
重心が崩れる。
完全ではない。
だが。
一瞬。
「今だ!」
サミエムが踏み込む。
剣。
横薙ぎ。
装甲の隙間。
血。
蒸気。
絶叫。
ギィィィッ!!
だが浅い。
まだ倒れない。
直後。
小型が飛ぶ。
サミエムの死角。
速い。
「――魂を縛れ、魂鎖!」
青白い糸。
蒸樹蛇へ巻き付く。
一瞬停止。
本当に一瞬。
呼吸ひとつ分。
だが。
十分。
サミエムが肘で叩き落とす。
そのまま斬る。
落下。
霧へ消える。
「助かった!」
「何回目だよ!」
灰崎が叫ぶ。
魔力はまだある。
軽い。
本当に軽い。
だが万能じゃない。
止まるのは一瞬。
強敵ほど短い。
大型にはほぼ誤差。
でも。
(十分だ)
その一瞬で死がズレる。
攻撃が間に合う。
距離が取れる。
一人でも戦える。
それがデカい。
大型蒸樹蛇が再び蒸気を吐く。
白。
視界ゼロ。
その瞬間。
灰崎の目だけが動いた。
魂の色。
灰。
位置。
動き。
そして。
進路。
「サミエム!」
「何だ!」
「次、突っ込む!左脚――いや左側の根!」
「根?」
「乾いてる方!」
意味は分からない。
だがサミエムは動いた。
信じた。
踏み込む。
大型蒸樹蛇も突進。
直線。
衝突。
その寸前。
灰崎が叫ぶ。
「魂鎖!」
一瞬。
止まる。
身体が硬直。
その誤差。
コンマ数秒。
サミエムの剣が滑り込む。
狙いは傷口。
継ぎ目。
深く。
深く。
突き刺さる。
ギィィィィィィィィッ!!!
悲鳴。
巨体が暴れる。
尾が根を打つ。
霧が裂ける。
だが。
足が滑った。
乾いていない。
重心が流れる。
巨体が傾く。
「落ちる……!」
誰かが叫ぶ。
大型蒸樹蛇はなお暴れながら。
そのまま。
断崖へ。
霧の底へ。
消えた。
数秒。
静寂。
そして。
小型たちが止まる。
こちらを見る。
低く鳴く。
だが。
来ない。
じりじりと後退。
霧へ沈む。
逃げた。
「……終わった?」
誰かが呟く。
灰崎はその場へ座り込んだ。
「疲れた……」
息が荒い。
汗が酷い。
心臓もうるさい。
だが。
生きている。
その時だった。
チリン。
鈴。
すぐ近く。
妖精。
今までで一番近い。
目の前。
そして。
初めて。
ほんの少しだけ。
頭を下げたように見えた。




