【怠惰の章】霧根の道(十)
ギィィ……
低い鳴き声だった。
威嚇というより、確認。
霧の向こうから這い出てきた巨体は、まるで森の一部だった。
長い。
太い。
人間の胴ほどもある体躯。
樹皮じみた外殻が幾重にも重なり、湿った鈍い光を放っている。根に絡みつく姿は、見ようによってはただの木肌だった。
擬態。
それも異常な精度。
気付かなければ踏み抜いていた。
裂けた口がゆっくり開く。
花弁のように。
中に並ぶ牙。
白い蒸気。
熱い息。
それが湿気を押し流し、灰崎の頬を掠めた。
熱かった。
思わず顔をしかめる。
「……デカすぎんだろ」
喉が乾く。
嫌な相手だ。
感情が静かすぎる。
魂の色が見える。
灰色。
冷たい。
小型より遥かに揺らぎが少ない。
怒りも少ない。
殺意も少ない。
なのに。
危険だけが濃かった。
飢え。
本能。
狩る。
ただそれだけ。
感情というより機構に近い。
「下がれ」
サミエムが前へ出る。
剣先が少し下がる。
肩の力が抜ける。
集中。
だが灰崎には分かる。
無理している。
魂の色が荒い。
焦燥。
疲労。
恐怖。
全部を押し潰して無理やり前へ出ている。
「一人で行くなって」
「狭い」
短い返答。
「全員前出たら落ちる」
正しい。
だから腹が立つ。
理屈が通ってしまう。
「なら俺も前」
「魔法使いだろお前」
「足止めくらい出来る!」
言い終える前だった。
ギィッ!!
巨蛇が消えた。
「っ!?」
速い。
でかいくせに。
霧を裂き、横薙ぎに身体を振る。
サミエムが剣を立てる。
激突。
鈍い衝撃。
火花。
根が揺れた。
「ぐっ……!」
重い。
押されている。
断崖側。
足場が狭い。
あと半歩で落ちる。
「サミエム!」
灰崎は息を吸った。
短い詠唱。
「――魂を縛れ、魂鎖!」
青白い糸。
細い。
頼りない。
蛇へ絡む。
一瞬。
止まる。
本当に僅か。
呼吸一つ。
それだけ。
だが。
「十分!」
サミエムが踏み込む。
押し返す。
剣。
斜め。
外殻へ斬撃。
ガギンッ!!
硬い。
「っ、硬ッ!」
浅い。
血も少ない。
装甲。
近縁種とはいえ親玉級。
簡単には通らない。
蛇が咆哮する。
同時。
左右の霧。
小型。
また来た。
「群れまでかよ!」
灰崎が舌打ちする。
悪い。
最悪に悪い。
親玉に集中すれば横から食われる。
小型を見れば押し負ける。
しかも断崖。
一本道。
「右来る!」
諜報員の叫び。
蛇が飛ぶ。
灰崎は反射的に詠唱。
「魂鎖!」
一瞬停止。
槍が刺さる。
悲鳴。
落下。
すぐ次。
「左!」
「魂鎖!」
止まる。
一秒もない。
だが十分。
回避。
迎撃。
連携。
少しずつ噛み合う。
(……悪くない)
強くない。
本当に強くない。
でも便利だ。
時間を作れる。
呼吸を作れる。
死をズラせる。
一人でも戦いやすい。
それが大きい。
その時。
巨蛇が動いた。
蒸気。
口が開く。
嫌な予感。
「伏せろ!」
灰崎が叫ぶ。
次の瞬間。
ブシュゥゥゥッ!!
白い熱気。
蒸気。
高圧。
前方へ薙ぎ払われた。
「熱ッ!?」
諜報員が転がる。
皮膚が赤くなる。
根が湿る。
視界がさらに白く染まる。
最悪だった。
霧+蒸気。
何も見えない。
「クソッ!」
灰崎が目を細める。
だが。
見える。
魂の色。
ぼんやりと。
静かな灰。
そして。
(……動き、読める?)
違和感。
さっきから。
巨蛇は同じだった。
噛みつく前。
蒸気。
身体が僅かに縮む。
横薙ぎ前。
尾が硬直。
予備動作。
しかも。
必ず。
“滑りにくい根”を使っている。
「……あ」
気付く。
法則。
戦闘でも同じだ。
安全寄りの道。
綺麗な根。
湿りが少ない場所。
そこを通る。
逆に。
罠。
飛び込み。
待ち伏せ。
危険側は傷が多い。
つまり。
「サミエム!」
「何だ!」
「左寄るな!」
「?」
「そっち滑る!」
次の瞬間。
巨蛇が突進。
サミエムが右へ回避。
左を掠めた尾が。
ズルッ。
滑る。
一瞬体勢が崩れる。
「今!」
サミエムが踏み込む。
剣。
全力。
外殻の隙間へ。
突き。
鈍い音。
悲鳴。
蒸気。
ギィィィィッ!!
絶叫が霧へ響いた。
そして。
チリン。
すぐ近く。
妖精。
肩の高さ。
逃げない。
ただ見ている。
少しだけ。
鈴が揺れた。
まるで。
――続きを見せろ。
そう言うように。




