【怠惰の章】霧根の道(九)
ギィィィィッ!!
耳障りな鳴き声が霧へ響いた。
細長い異形が根へ身体を擦りつける。
岩のような樹皮。
蒸気を孕んだ湿った体表。
裂けた花弁みたいな口。
そして、牙。
近くで見るほど気持ち悪かった。
根そのものが突然生き物になったような錯覚を覚える。
擬態。
それも極めて悪質な。
今まで灰崎たちが歩いてきた“安全寄り”の道にすら入り込んでいる。
「数、多い!」
地図係の女が声を上げる。
霧の中。
また動いた。
一本。
二本。
三本。
いや違う。
もっとだ。
根の裂け目。
湿った影。
そこら中に細長い身体が潜んでいる。
まるで樹そのものが牙を持ったようだった。
「……冗談だろ」
灰崎が舌打ちする。
狭い。
あまりにも狭い。
左右は断崖。
横幅はせいぜい人三人。
飛び退けば落下。
囲まれれば終わり。
しかも敵は蛇型。
速い。
足場を選ばない。
最悪の地形だった。
サミエムが一歩前へ出る。
剣を低く構える。
息を吐く。
肩の力だけが妙に抜けていた。
逆に危ない。
灰崎には分かる。
魂の色。
焦燥。
疲労。
恐怖。
全部が混ざり、それを理屈で押し潰している。
最近ずっとそうだ。
壊れる寸前の集中。
「前出すぎんな!」
灰崎が叫ぶ。
「押し込まれたら落ちる!」
「分かってる!」
返答と同時。
蛇が飛ぶ。
速い。
霧を裂いて一直線。
牙。
サミエムが半歩引く。
躱す。
そのまま剣。
斜め。
一閃。
肉が裂けた。
緑黒い液体が飛ぶ。
蛇が痙攣しながら落下する。
だが。
「右!」
灰崎が叫ぶ。
死角。
根の影。
別個体。
飛ぶ。
サミエムが間に合わない。
灰崎は反射的に息を吸った。
短い詠唱。
「――魂を縛れ、魂鎖!」
青白い糸。
細い。
本当に頼りない。
だが絡む。
一瞬。
蛇の身体が止まる。
硬直。
ほんの僅か。
「助かる!」
サミエムの剣。
振り抜き。
落下。
霧へ消える。
灰崎は小さく息を吐いた。
魔力消費は軽い。
魂術とは比べ物にならない。
だが。
やはり弱い。
拘束とは呼べない。
時間稼ぎ。
それだけ。
でも。
(悪くない……!)
一人で戦える。
最低限。
逃げられる。
距離を取れる。
時間を作れる。
それだけで違う。
その瞬間。
ギィィィィ!
正面。
三体同時。
「来る!」
サミエムが踏み込む。
だが狭い。
一体斬る。
二体目を弾く。
三体目。
下から。
「っ!」
間に合わない。
灰崎が叫ぶ。
「魂鎖!」
止まる。
一瞬。
その一瞬でサミエムが体勢を変える。
肘。
蹴り。
斬撃。
血。
霧。
断崖。
異形が沈む。
「連携できるな」
サミエムが短く言う。
「今更かよ!」
灰崎が怒鳴る。
だが悪くない。
噛み合っている。
前衛。
後衛。
足止め。
処理。
シンプルだ。
だが強い。
少なくとも雑魚には。
問題は。
「……まだいる」
灰崎が前を見る。
魂の色。
霧の奥。
静かな灰。
低い飢え。
薄い殺意。
多い。
数が。
嫌になるほど。
しかも。
微妙に違う。
さっきまでの個体と。
「サミエム」
「何だ」
「大きいのいる」
沈黙。
その直後。
根が軋んだ。
ミシッ。
いや。
違う。
何かが“這った”。
霧が裂ける。
現れた。
長い。
太い。
人間の胴ほど。
樹皮みたいな装甲。
そして裂けた口から、白い蒸気が漏れていた。
ギィィ……
低い。
静かな鳴き声。
異様だった。
小型より感情が薄い。
静か。
なのに。
危険だけが濃い。
「……近縁種の親玉か」
誰かが呟く。
その瞬間。
妖精の鈴が鳴った。
チリン。
近い。
いつもより近い。
そして。
初めてだった。
妖精が灰崎の肩ほどの高さまで降りる。
待つ。
見る。
まるで。
――どうする?
そう試しているように。




