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【怠惰の章】霧根の道(八)

 霧の向こうで、何かが動いた。


 ほんの一瞬。


 白の中へ黒が混じった。


 それだけだった。


 だが灰崎の足は止まった。


「……止まれ」


 低く言う。


 先頭を歩いていたサミエムの足が即座に止まる。


 振り返らない。


 剣を少しだけ構え直す。


 それだけで分かる。


 全員の空気が張った。


 熱帯の湿気が急に重くなる。


 風が止んだ気がした。


 断崖の霧が揺れ、白が濃くなる。


「何だ」


 サミエムの短い問い。


 灰崎は前を見る。


 正確には――見るしかない。


 魂の色。


 この目に映るもの。


 普通の視界とは少し違う。


 命は揺らぐ。


 怒りは赤く燃える。


 恐怖はくすみ、濁る。


 執着は粘つく。


 狂気は歪む。


 そして今。


 霧の奥。


 何かがいる。


 色が見えた。


 黒。


 いや違う。


 灰色に近い。


 静かだ。


 嫌に静か。


 殺意が薄い。


 なのに危険だけが異様に強い。


 まるで。


 飢えきった獣。


「……変だ」


 ぽつりと漏れる。


「敵か?」


「いる」


 言葉を選ぶ。


「でも……さっきの猿もどきと違う」


 近縁種。


 あれは単純だった。


 飢え。


 狩り。


 殺意。


 感情が分かりやすい。


 だが今のは違う。


 揺れが少ない。


 静かすぎる。


 感情の熱量が低い。


 それなのに。


 本能だけが警鐘を鳴らしていた。


 怖い。


 単純に。


 嫌な感じがする。


「妖精」


 地図係が小さく言う。


 全員の視線が向く。


 妖精。


 止まっていた。


 鈴を鳴らさない。


 前へ進まない。


 ただ静かに浮いている。


 見ている。


 いつもの試験官の顔。


 いや、顔はないのだが。


 そんな空気。


「……またかよ」


 灰崎が舌打ちする。


「お前ほんと助けねぇな」


 返答はない。


 当然。


 ただ。


 ほんの少しだけ羽が揺れる。


 待っている。


 こちらの判断を。


「行く」


 サミエムが言った。


「様子見る」


「無茶すんな」


「無茶しない」


 即答。


 だが信用ならない。


 最近のサミエムは、その“無茶しない”が一番危ない。


 無茶を合理で正当化する。


 止まらない。


 壊れるまで進む。


 魂の色がそう言っている。


 灰崎は少し眉を寄せた。


「俺も行く」


「後ろにいろ」


「嫌だね」


 少し睨み合う。


 沈黙。


 湿気。


 風。


 そして。


 サミエムが短く息を吐いた。


「……近くにいろ」


「おう」


 前進。


 慎重に。


 右の根。


 細い。


 湿り気は少ない。


 比較的安全。


 それでも断崖だ。


 足を滑らせれば死ぬ。


 霧の下は何も見えない。


 呼吸音だけが響く。


 誰も喋らない。


 そして。


 また動いた。


 霧。


 右。


 低い位置。


 這う影。


 長い。


 細い。


 だが。


 妙に太い。


 根に見える。


 擬態。


「――そこ!」


 サミエムが走る。


 速い。


 踏み込み。


 剣閃。


 銀が走る。


 次の瞬間。


 ――ギィィィッ!!


 悲鳴。


 霧が裂けた。


「うおっ!?」


 灰崎が息を呑む。


 蛇だった。


 いや蛇に近い。


 だが短い。


 太い。


 身体が岩みたいな樹皮に覆われている。


 そして口。


 裂けていた。


 花みたいに開く。


 棘。


 牙。


 根の裂け目と見分けがつかない。


「近縁種……?」


 誰かが呟く。


 スチームタイラントスネーク。


 その痕跡。


 ここまで来ていた。


 本物ではない。


 だが。


 十分危険だった。


 蛇が飛ぶ。


 速い。


 サミエムが避ける。


 だが。


 霧。


 下。


 左右。


 さらに三体。


「群れかよ!」


 灰崎が舌打ちする。


 狭い。


 断崖。


 動けない。


 押し込まれれば終わり。


 蛇が諜報員へ飛ぶ。


「っ!」


 短い詠唱。


「――魂を縛れ、魂鎖!」


 青白い糸。


 絡む。


 一瞬。


 止まる。


 本当に一瞬。


 だが。


「助かる!」


 諜報員が槍を突き込む。


 血飛沫。


 悲鳴。


 落下。


 霧へ沈む。


「短っ!」


「言ったろ弱いって!」


 灰崎が叫ぶ。


 もう一体。


 飛ぶ。


 牙。


 距離が近い。


 間に合わない。


 反射的にまた詠唱。


「魂鎖!」


 止まる。


 一瞬。


 本当に呼吸一つ分。


 だが十分。


 後ろへ飛び退く。


 心臓がうるさい。


「……使える」


 ぽつりと漏れる。


 強くはない。


 でも。


 生き延びられる。


 一人でも戦える。


 逃げる時間が作れる。


 その時。


 チリン。


 鈴。


 妖精だった。


 いつもより少し近く。


 そして。


 ほんの少しだけ。


 こちらへ寄っていた。

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