【怠惰の章】霧根の道(七)
チリン。
鈴の音が鳴った。
霧の中。
妖精が――近い。
今までなら常に十数歩先を保っていた。
置いていかない。
だが寄り添いもしない。
そんな距離。
なのに今は違った。
ふわり、と灰崎の目線の高さ近くまで降りてきていた。
白い羽が淡く光る。
小さな身体。
透けるような輪郭。
森そのものを切り取って形にしたみたいな存在。
そして。
ただ静かに浮いている。
「……近っ」
灰崎が思わず眉を上げた。
妖精は答えない。
当然だ。
だが鈴が小さく揺れる。
チリン。
まるで続きを促すように。
「つまり正解か?」
地図係の女が言う。
灰崎は少し周囲を見る。
五本の根。
断崖へ伸びる巨大な樹根たち。
どれも道に見える。
どれも死に見える。
白い霧がすべてを曖昧にしていた。
そして。
この森は曖昧さで殺す。
見えない。
分からない。
判断を間違える。
それだけで死ぬ。
熱帯の湿気が肺へ張り付き、集中力を奪う。
足元は湿り、感覚が鈍る。
疲労もある。
思考を削る条件が多すぎた。
「……いや、たぶん」
灰崎がしゃがみ込む。
根へ触れる。
硬い。
岩みたいだ。
だが奥に生温さがある。
妙に気持ち悪い。
生き物。
そんな感じ。
掌を滑らせる。
一番左。
ひび割れが多い。
小さな裂傷。
抉れ。
何かが爪で引っ掻いたような跡。
湿気も強い。
苔。
腐葉。
滑りやすい。
「これ違う」
次。
中央寄り。
樹液が乾いた跡。
そして――。
「……これ」
灰崎が目を細める。
魂の色ではない。
ただの観察。
けれど最近ようやく見えてきた。
法則。
魔物が出る場所。
崩れる場所。
妖精が止まる場所。
全部少しずつ繋がっている。
「傷が多い」
ぽつりと言う。
「でも問題は数じゃない」
サミエムが近づいた。
「何だ」
「方向」
「方向?」
灰崎は根を指差した。
削れ方。
抉れ。
擦れ。
「全部、“外向き”なんだよ」
諜報員たちが覗き込む。
「外?」
「何かが外から来てる」
言葉を整理する。
「さっきの近縁種、覚えてるだろ」
猿とも犬ともつかない異形。
根に擬態していた捕食者。
「あいつら、飛び出してきた」
「あぁ」
「なら傷は内向きになる」
サミエムが少し目を細めた。
理解が早い。
「……通り道か」
「多分」
灰崎は頷く。
「狩場」
静かになる。
湿気が重い。
遠くで風が唸る。
霧が揺れた。
白い断崖。
底なし。
そして。
今選ぼうとしている道。
間違えれば。
恐らく次は死ぬ。
「で?」
地図係が聞く。
「どれだ」
灰崎は立ち上がった。
一本ずつ見る。
削れ。
苔。
湿り。
足場。
視線。
魂の色は見えない。
道に魂はない。
だから観察だけ。
そして。
一本。
最も右。
少し細い。
地味。
派手さがない。
だが。
綺麗だった。
静か。
削れが少ない。
苔が薄い。
そして。
不自然なほど何もない。
「……これ」
指差す。
「右」
全員が見る。
地味だ。
明らかに通りづらそう。
中央の太い道の方が魅力的だった。
「根拠は」
サミエム。
短い質問。
「安全そうだから」
「雑だな」
「いや待て」
灰崎は苦笑した。
「安全“そう”じゃない」
少し言葉を探す。
「……生き物が寄ってない」
沈黙。
そして。
チリン。
妖精の鈴。
小さい音。
肯定。
そう思った。
さらに。
妖精が右の道へ飛ぶ。
止まる。
振り返る。
待つ。
「うわ腹立つ」
灰崎が顔をしかめた。
「正解だけど満点じゃない教師みたい」
地図係が吹き出す。
疲れていたせいか、少し笑いが広がる。
だが。
サミエムだけは笑わなかった。
もう歩いている。
先頭。
剣を抜いたまま。
霧の中へ。
灰崎はその背中を見る。
魂の色。
焦燥。
責任。
疲労。
そして恐怖。
全部を無理やり押し固めて進んでいる。
壊れかけだ。
なのに止まらない。
「……ほんと無茶すんな」
ぼそりと漏れる。
聞こえたのか。
サミエムが少しだけ肩越しに言った。
「止まったら、追いつけなくなる気がする」
小さい声だった。
風に消えそうな。
弱音みたいな。
だから灰崎は少し驚いた。
そして。
その時だった。
霧の向こう。
根の奥。
何かが動いた。




