【怠惰の章】霧根の道(六)
チリン。
鈴の音が鳴った。
白い霧の中。
妖精はまた少し先にいる。
いつもの距離。
置いていかない。
だが寄り添いもしない。
ただ待ち、ただ見る。
試験官。
門番。
そんな言葉がもう自然と頭に浮かぶ。
だが今、灰崎の意識は妖精ではなく足元にあった。
「……法則?」
地図係の女が聞き返す。
諜報員たちの視線も集まる。
休憩直後。
湿った空気の中、全員の疲労が滲んでいた。
息が重い。
顔色も悪い。
それでも立っているのは、ここが安全地帯ではないからだ。
一歩間違えば死ぬ。
その事実だけが皆を起こしている。
灰崎はしゃがみ込んだ。
巨大な根へ手を置く。
木というより岩。
だが硬さの奥に妙な生温さがある。
生き物の体表。
そんな気持ち悪さ。
汗ばんだ掌へ湿気が張り付く。
「ここ」
指先で根をなぞる。
「傷がある」
サミエムが近づく。
「戦闘跡か?」
「いや……違う」
灰崎は目を細めた。
削れ方。
欠け方。
細かな凹み。
そして微妙な色。
魂の色ではない。
もっと単純な観察だ。
「さっきの近縁種」
黒い樹皮猿みたいな魔物を思い出す。
「いた場所、全部こういう根だった」
地図係が眉を寄せる。
「……言われてみれば」
灰崎は立ち上がる。
前方を見る。
分岐。
三本の根。
左。
中央。
右。
さっき妖精が示したのは左だった。
そして今見ると。
「綺麗だ」
ぽつりと言う。
「左だけ」
皆が見る。
確かに。
違った。
左の根は滑らかだ。
割れも少ない。
削れも少ない。
苔が薄い。
湿気が少ない。
歩きやすい。
中央と右は逆だった。
ひび。
傷。
欠け。
樹液の乾いた跡。
そして何より。
薄暗い。
同じ霧のはずなのに妙に暗く見える。
「安全ルートか」
壮年の諜報員が呟く。
「いや」
灰崎は少し首を振る。
「正確には“安全寄り”だな」
「何が違う」
「試験だから」
言いながら自分でも納得した。
妖精は助けない。
全部教えない。
だが死なせたいわけでもない。
だから答えは出す。
ただし見つけられる形で。
「つまり」
灰崎が妖精を見る。
「考えろってことか」
妖精は何も言わない。
ただ浮いている。
感情は静か。
整いすぎていて読みにくい。
でも。
気のせいだろうか。
鈴が小さく揺れた。
チリン。
肯定みたいに。
「……ムカつくな」
思わず漏れる。
地図係が吹き出した。
「先生に正解認定されてるみたい」
「嫌すぎる」
少しだけ笑いが漏れる。
疲弊した空気が緩む。
だが一瞬だった。
サミエムが立ち上がる。
「進むぞ」
短い。
いつも通り。
けれど灰崎は見る。
魂の色。
荒れている。
焦燥。
責任。
恐怖。
無理やり押し固めた理性。
最近のサミエムはずっとこうだ。
疲れている。
なのに止まらない。
前だけを見る。
怖いくらいに。
「……おい」
灰崎が声を掛ける。
「何だ」
「ちょっと休んだだけで顔死んでるぞ」
「問題ない」
「あるだろ」
即答。
やっぱり早い。
考えるより先に答えている。
焦り。
余裕のなさ。
「お前さ」
灰崎が歩きながら言う。
「最近、自分追い込みすぎ」
「必要だ」
「必要でも限度ある」
「勝たなきゃ意味がない」
短い。
硬い。
その言葉に空気が少し冷える。
地図係たちも黙る。
サミエムは続けた。
「嫉妬帝に負けた」
拳が少し強く握られる。
「負けたまま終われない」
「だからって壊れて良い理由にならんだろ」
灰崎が返す。
数秒。
霧の中を歩く音だけ。
そして。
「……分かってる」
小さい声だった。
「でも止まれない」
灰崎は少し黙る。
魂の色を見る。
怖い。
そう見えた。
負けるのが。
置いていかれるのが。
守れないのが。
だから走る。
走って、走って、潰れるまで。
そういう色だった。
チリン。
妖精が鳴らす。
また分岐。
今度は五本。
複雑だった。
細い根。
太い根。
濡れた根。
崩れた根。
霧に消える道。
普通なら分からない。
だが。
「……あ」
灰崎が足を止める。
見えてきた。
共通点。
削れ。
苔。
湿り。
そして魔物の痕跡。
安全寄りの道には共通して、
“何かが少ない”。
「待て」
灰崎が言った。
「多分、次分かる」
妖精が。
初めて少しだけ。
こちらへ近づいた。




