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【怠惰の章】霧根の道(五)

 チリン。


 鈴の音が、また一度鳴った。


 霧の向こう。


 妖精は少し先で止まっている。


 待つ。


 だが待ちすぎない。


 いつもの距離。


 絶妙に腹が立つ距離感だった。


 灰崎は息を吐いた。


「……ほんと嫌な試験官だな」


 誰に言うでもなく漏れた言葉だった。


 足元には、さっき斬り落とされた近縁種の緑黒い血がまだ薄く残っている。


 粘ついていた。


 木の根へ染み込みながら、熱気の中で生臭さを放っている。


 湿った腐葉土の匂い。


 木液の青臭さ。


 獣臭。


 血臭。


 そして湿気。


 全部が混ざり合って、肺の奥まで張り付く。


 気持ち悪い。


 熱帯特有の空気だった。


 重い。


 息を吸うだけで疲れる。


 なのに断崖から吹き上がる風だけが妙に冷たい。


 汗ばんだ首筋を撫でていく。


 寒いのか暑いのか、自分でも分からなくなる。


「少し止まる」


 サミエムが言った。


 短い。


 だが有無を言わせない声音だった。


 全員が少し安堵したように息を吐く。


 根は比較的広かった。


 人が十人ほど休めそうな場所。


 とはいえ左右は霧。


 一歩外れれば死。


 安心感などない。


 それでも立ち続けるよりは遥かにマシだった。


 諜報員たちが荷を下ろし始める。


「水、回せ」


「無理に飲み過ぎんな」


「熱疲労の方が怖い」


 声が飛ぶ。


 皆、疲れていた。


 魂の色を見れば分かる。


 鈍い。


 重い。


 色が濁っている。


 極限ではない。


 だが削られている。


 特に熱。


 暑さがじわじわと精神を削っていた。


 苛立ち。


 焦り。


 疲弊。


 小さな感情の揺れが重なっている。


 灰崎は腰を下ろした。


 根は硬かった。


 木というより岩に近い。


 なのに微妙な湿り気がある。


 不思議な感触だった。


 掌をつけると、生きている温度がある。


 脈動はない。


 だが死物ではない。


 巨大な何かの一部。


 そんな感覚がした。


「……気持ち悪ぃ」


 思わず呟く。


「分かる」


 地図係の女が隣へ座った。


 額に汗。


 髪が張り付いている。


「歩いてる感じしないのよね」


「ん?」


「生き物の上歩いてる気分」


 灰崎は少し眉を上げた。


 奇妙だった。


 自分も同じことを思っていたから。


「お前もか」


「え?」


「いや、何でもない」


 口を閉じる。


 偶然か。


 それとも。


 少しだけ引っかかった。


 だがまだ言語化できない。


 チリン。


 鈴。


 妖精は離れた場所で浮いていた。


 こちらを見ている。


 急かさない。


 ただ待つ。


 灰崎はじっとその姿を見る。


 魂の色。


 静かだった。


 薄い。


 違う。


 整いすぎている。


 水面。


 波がほとんどない。


 感情がないわけではない。


 だが揺らぎが少ない。


 人間ではない。


 だからと言って獣とも違う。


 森の機能。


 そんな印象だった。


「なぁ」


 灰崎がぼそりと言う。


「お前、本当に門番なんだな」


 妖精は答えない。


 当然だ。


 けれど。


 気のせいか。


 ほんの少しだけ鈴が揺れた。


 風かもしれない。


 ただの偶然かもしれない。


 その時。


「灰崎」


 呼ばれる。


 サミエムだった。


 少し離れた場所。


 剣の手入れをしている。


 近くへ行く。


「何だ」


「さっきの術」


「あぁ、魂鎖?」


「まだ使えるか」


 灰崎は少し考える。


 魔力残量。


 感覚。


「まぁ何発か」


「消耗は?」


「魂術と比べたら屁みたいなもん」


 サミエムが頷く。


 そして少し黙った。


「助かった」


 短い。


 真っ直ぐだった。


 灰崎は少し目を丸くする。


「……素直だな急に」


「言う時は言う」


「前はもっと雑だったろ」


「そうか?」


「助かった!飯奢る!くらいだった」


 少し沈黙。


 サミエムが僅かに苦笑する。


 本当に僅かだった。


「余裕がないんだろ」


 自嘲気味だった。


 灰崎は少し黙る。


 魂の色を見る。


 焦り。


 熱。


 責任感。


 そして疲労。


 かなり危うい。


「……止まれよ」


 ぽつりと言う。


「無理すんな」


「止まれない」


 即答だった。


「戦争が来る」


「またそれか」


「勝てなかった」


 視線が落ちる。


「次負けたら終わる」


 灰崎は返せない。


 嫉妬帝との敗北。


 それが深く刺さっている。


 魂の色が証明していた。


 恐怖。


 悔恨。


 執着。


 全部が絡まっている。


 そして。


 理性で押し込めている。


 無理やり。


 だから苦しい。


「……お前さ」


 灰崎が言う。


「最近、ちょっと冷たくなったよな」


 サミエムが少し止まる。


「悪い意味じゃねぇ」


 言葉を探す。


「なんか、感情押し込めすぎ」


 沈黙。


 風。


 霧。


 遠くで鈴。


 そして。


「怖いんだろ」


 灰崎が言った。


「負けるの」


 サミエムは何も言わない。


 ただ。


 少しだけ視線を逸らした。


 それが答えだった。


 チリン。


 鈴が鳴る。


 妖精。


 進めと言っていた。


 だがその前に。


 灰崎の視線が根へ止まる。


 違和感。


 ほんの少し。


 傷。


 削れ方。


 そして。


 分岐。


「……なぁ」


 灰崎が呟く。


「これ、法則あるかもしれん」


 全員の視線が集まった。

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