【怠惰の章】霧根の道(四)
チリン。
鈴の音が霧の向こうで鳴った。
高く、澄んだ音だった。
だが不思議と安心感はない。
むしろ逆だった。
この森で鳴るその音は、道標であると同時に試験開始の合図にも思えてきていた。
灰崎はじっと前を見る。
白い。
霧。
何も見えない。
巨大な樹根だけが、崖沿いに不自然なほど整然と伸びている。
街道のようだった。
ただし左右は死。
落ちれば終わり。
谷底すら見えない。
風が吹くたび、霧が裂け、その下に黒い虚無みたいな空間が覗く。
深い。
という言葉で済ませていいのか分からないほど。
見ているだけで内臓が引っ張られる。
高所恐怖症とかそういう次元ではない。
本能が拒否していた。
ここは落ちる場所ではない。
死ぬ場所だ。
「……最悪」
灰崎がぼそりと呟く。
熱い。
なのに寒い。
大森林の湿った熱気が肌へまとわりついている。
汗が乾かない。
服が重い。
呼吸も微妙に浅くなる。
そのくせ断崖から吹き上がる風だけ妙に冷たい。
汗ばんだ肌を撫で、体温を奪う。
不快だった。
熱帯と高地を無理やり混ぜたみたいな環境。
地獄じみている。
「喋る余裕あるなら足元見ろ」
前方。
サミエムの短い声。
灰崎は少し眉を寄せた。
振り返りもしない。
だが耳だけはこちらを捉えている。
疲れているくせに。
余裕がないくせに。
それでも前に立っている。
灰崎は少しだけ目を細めた。
魂の色を見る。
サミエムの魂は荒れていた。
赤。
熱。
焦燥。
けれど以前のような激情ではない。
押し込めている。
無理やり整理している。
感情に蓋をして前へ進もうとしている色だった。
焦っている。
怖がっている。
でも止まれない。
そういう色。
「おい」
灰崎が声を掛けた。
「休むか?」
「必要ない」
即答。
やっぱり早い。
考える前に出ている。
「必要あるだろ」
「歩ける」
「だから歩けると休むは別だって」
サミエムの足が少し止まった。
霧の中。
風だけが吹く。
数秒。
そしてぽつり。
「……止まるのが怖い」
灰崎は言葉を失う。
サミエムは前を見たままだった。
「嫉妬帝に負けた」
低い声。
「分かってるだろ。戦争が来る」
「……あぁ」
「強くならないといけない」
短く息を吐く。
「次は勝たないといけない」
灰崎は黙った。
焦り。
恐怖。
責任。
全部が見えていた。
魂の色は嘘を吐かない。
サミエムは今、壊れかけている。
なのに本人は止まる気がない。
「死ぬぞそのうち」
ぽつりと言う。
サミエムは少しだけ苦笑した。
ほんの少し。
「死ぬ前に勝つ」
「そういうとこだぞ」
灰崎が呆れる。
けれど昔に少し戻った気がした。
無理をする。
強がる。
熱くなる。
それがサミエムだった。
最近は理屈で塗り潰しすぎていた。
今の返答には少しだけ、人間味があった。
チリン。
妖精が鳴らす。
少し先。
根の分岐だった。
三本。
右。
中央。
左。
どれも同じに見える。
太さも。
湿り方も。
危険性も。
なのに妖精は左に浮いた。
止まる。
こちらを見る。
待つ。
「なぁ」
灰崎が言う。
「完全に試験官だよなあいつ」
地図係の女が肩を竦めた。
「嫌なタイプのね」
「答え教えない教師」
「落第したら死ぬ教師」
少し笑いが漏れる。
疲れているからか、逆にそういう軽口が必要だった。
緊張が張り詰めっぱなしでは人は壊れる。
だが。
その直後だった。
灰崎の足が止まる。
「……ん?」
違和感。
前。
根。
いや。
根じゃない。
黒い。
微妙に蠢く。
樹皮に擬態している。
だが魂の色が見えた。
濁っている。
獣じみた飢え。
低い殺意。
「止まれ」
小さく言う。
サミエムの足が即止まった。
「敵か」
「多分」
視線を凝らす。
いた。
一匹。
二匹。
三匹。
犬ほど。
いや猿に近い。
四肢で這う。
外殻が樹皮。
目が多い。
気持ち悪い。
根とほとんど見分けがつかない。
「近縁種か……」
諜報員が呟く。
四天王級の痕跡ではない。
だが弱そうにも見えない。
速度型。
待ち伏せ。
そして。
飛んだ。
「来る!」
サミエムが前へ出る。
剣。
火花。
一体を弾く。
だが左右。
さらに二体。
死角。
「ちっ!」
灰崎が咄嗟に息を吸う。
魔力を流す。
短い。
本当に短い詠唱。
「――魂を縛れ、魂鎖」
細い青白い線。
ほとんど糸。
魔物へ絡む。
一瞬。
止まる。
身体が強張る。
本当に一瞬。
一秒もない。
だが。
「十分!」
サミエムが斬る。
一閃。
緑液。
落下。
霧へ沈む。
「便利だな!」
「弱いけどな!」
灰崎が叫ぶ。
別個体。
また飛ぶ。
「魂鎖!」
止まる。
一瞬。
また動く。
本当に足止めだけ。
拘束とは呼べない。
強敵なら誤差だろう。
けれど。
これなら一人でも逃げられる。
距離が取れる。
時間を作れる。
サミエムとの相性も悪くない。
「悪くねぇ……!」
灰崎が少し口角を上げる。
そして。
チリン。
妖精が鳴らした。
前方。
振り返る。
待つ。
ほんの少しだけ。
いつもより長く。
まるで。
――見ている。
そう言うように。




