【怠惰の章】霧根の道(三)
チリン。
鈴の音が、霧の向こうへ消えていく。
灰崎たちは再び歩き始めていた。
断崖。
巨大な根。
白く濁る視界。
足場はある。
だが安心感はない。
むしろ進むほど嫌な緊張が増していた。
一本の根が道のように伸び、その左右には霧しかない。
底は見えない。
石を落としても音が返らない。
どこまで深いのか分からない。
いや。
底があるのかすら怪しい。
風が吹く。
湿っている。
熱い。
なのに時折、谷底から這い上がる冷気が混じる。
肌へまとわりつく熱気と、骨に差し込む冷たさ。
感覚が狂う。
汗が冷え、また蒸される。
気持ち悪い。
「……最悪な環境だな」
灰崎がぼやく。
隣を歩く地図係の女が苦笑した。
「熱帯なのか高地なのか分かんないわね」
「高熱地獄に崖足した奴だろこれ」
前から短い声。
「喋る余裕あるなら足元見ろ」
サミエムだった。
振り返りもしない。
だが耳だけはこちらを聞いている。
いつもの調子。
……いや、少し違う。
余裕がない。
声が硬い。
灰崎は少し視線を向ける。
サミエムの肩が微妙に上下していた。
疲れている。
明らかに。
熱。
連戦。
睡眠不足。
それに加え、最近の異様な焦り。
本人は隠しているつもりなのだろうが、長く見ていれば分かる。
無理をしている。
そして。
止まろうとしていない。
チリン。
妖精が少し先で止まる。
振り返る。
待つ。
だが短い。
一呼吸。
それ以上は待たない。
「ほんとせっかちだなお前」
灰崎が小さく毒づく。
妖精は反応しない。
少し首を傾げたようにも見える。
そしてまた進む。
「……いや違うか」
灰崎は小さく呟く。
「何が?」
地図係が聞く。
「あいつ待ってんじゃない」
妖精を見る。
距離。
タイミング。
歩幅。
「見てる」
「試験官ね」
「多分」
地図係も前を見る。
「でも妙なのよ」
「妙?」
「あの妖精、危険を避けさせる時と避けさせない時がある」
灰崎は少し考える。
確かに。
樹上捕食者。
あれは完全放置だった。
安全ルートだけ示した。
腐った根もそう。
答えは出さない。
気づかせる。
「つまり」
地図係が言う。
「死ぬ奴は死ねってこと」
「怖ぇなおい」
「門番ってそういうものじゃない?」
その時だった。
チリン。
鈴。
今度は短い。
そして。
妖精が根を飛び移った。
右。
細い道。
明らかに歩きづらい。
「何でそっち?」
灰崎が眉をひそめる。
今までの道の方が太い。
歩きやすい。
安全そうだ。
だが。
サミエムだけは止まった。
「……待て」
空気が変わる。
全員停止。
「灰崎」
「ん?」
「見ろ」
前。
太い根。
灰崎は目を閉じた。
魂感知。
呼吸。
意識を沈める。
命の波。
森の揺らぎ。
湿った霊力。
そして。
「……あ」
違和感。
まただ。
ざらつく。
淀む。
薄く。
嫌な感じ。
前方一帯。
地面。
「何かある」
「位置」
「十歩先くらい」
サミエムが頷く。
剣を抜く。
歩く。
一歩。
二歩。
そして。
地面へ突き立てた。
瞬間。
――ブシュッ!!
根が弾けた。
「っ!?」
飛び出した。
蔦。
違う。
牙だ。
植物。
根の下から巨大な捕食器官が現れる。
口。
棘。
鋸みたいな歯。
根に擬態していた。
「散れ!!」
サミエムが斬る。
一閃。
緑液が飛ぶ。
だが終わらない。
左右。
さらに。
根が割れる。
口。
口。
口。
「うわキモっ!!」
灰崎が掌を向ける。
霊力が走る。
『縛れ――魂鎖!』
青白い光。
鎖。
植物へ巻き付く。
締め上げる。
動きが止まる。
「左止めた!」
「助かる!」
サミエムが飛ぶ。
剣閃。
切断。
落下。
霧へ沈む。
その瞬間。
妖精が。
チリン。
静かに鳴らした。
そして。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
待つ時間が長くなった。




