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【怠惰の章】霧根の道(二)

 チリン。


 鈴の音が、霧の中へ吸い込まれていく。


 妖精は先にいた。


 巨大な根の上。


 白く霞む断崖の道に、小さな光だけがぽつりと浮いている。


 まるで。


 ――来い。


 そう言っているようだった。


「……冗談だろ」


 灰崎は思わず呟いた。


 根。


 いや、道だ。


 一本の樹根が断崖を横断している。


 幅だけなら馬車が二台並べるほどある。


 だが問題はそこではない。


 先が見えない。


 霧。


 ただ白い。


 底も見えない。


 落ちれば終わり。


 そんな直感だけがある。


 風が吹く。


 湿った熱気の中に、断崖特有の冷たさが混ざっていた。


 じっとりと肌へ張り付きながら、首筋を撫でる。


 不快だった。


 大森林の熱気と、谷底から這い上がる冷気。


 混ざり方が気持ち悪い。


「足元気を付けろ」


 サミエムが短く言った。


 既に歩き出している。


 迷いがない。


 だが速度は落としていた。


 ほんの僅かに。


 恐らく全員の疲労を見て。


 あるいは地形を警戒して。


「隊列詰めすぎるな」


「三人間隔」


「視界確保」


 諜報員たちが動く。


 灰崎も根へ足を乗せた。


 ――硬い。


 木ではない。


 感触が違う。


 石みたいだった。


 湿っているのに滑りづらい。


 不自然なくらい。


「……何だこれ」


 しゃがみ込む。


 表面を触る。


 細かな溝。


 植物なのに妙に整っている。


 踏まれる前提で作られたみたいな。


「歩道みてぇ」


「人工ではない」


 サミエムが振り返らず言う。


「だが偶然でもない気がする」


「何だそれ」


「誰かが維持してる」


 灰崎は眉を寄せた。


 誰か。


 妖精か?


 それとも。


 この森そのもの?


 チリン。


 妖精がまた少し先へ進む。


 止まる。


 振り返る。


 待つ。


 絶妙だった。


 置いていかない。


 だが甘やかさない。


「ほんとムカつく距離感してんな……」


 灰崎がぼやく。


 地図係の女が苦笑した。


「でもあれ、たぶん意味ある」


「何が?」


「観察してる」


 女は前を見る。


「こっちの速度も、判断も」


 言われてみればそうだった。


 さっきの戦闘。


 安全地帯。


 誘導。


 全部。


 助けではない。


 試験。


 資格確認。


 門番。


 そんな言葉が何度も頭に浮かぶ。


 灰崎はふと目を閉じた。


 呼吸。


 霊力を巡らせる。


 感覚が広がる。


 魂術。


 視界ではない。


 命を読む感覚。


 濁り。


 揺れ。


 殺意。


 疲弊。


 それらが世界に色をつける。


 仲間。


 諜報員たち。


 疲れている。


 重い。


 熱気で消耗している。


 そして――。


「……ん?」


 違和感。


 前方。


 根。


 微かに。


 ざらつく。


 生命の気配ではない。


 もっと薄い。


 嫌な感触。


 腐った霊力みたいな。


「止まれ」


 灰崎が声を上げた。


 全員が止まる。


 サミエムだけが振り返った。


「何だ」


「前」


 根を指差す。


「何か嫌な感じする」


「敵か?」


「分からん」


 少し眉を寄せる。


「でも……踏みたくない」


 曖昧な表現。


 魂感知は万能じゃない。


 視覚ほど明確でもない。


 違和感。


 ノイズ。


 悪寒。


 近い。


 サミエムが目を細めた。


「確認する」


 ゆっくり進む。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そして。


 剣先で根を軽く叩く。


 瞬間。


 ――バキン!!


 根が砕けた。


「っ!?」


 空洞。


 中が腐っていた。


 表面だけ。


 下は崩落。


 白い霧へ落ちていく。


 石が消える。


 音も返らない。


 深すぎる。


「おいおい……」


 誰かが青ざめた。


「死ぬぞこれ」


「踏めば終わりだな」


 サミエムが静かに言う。


 そして灰崎を見る。


「助かった」


「……偶然かもしれん」


「違う」


 即答だった。


「感知だ」


 灰崎は少し言葉に詰まる。


 褒められるのが妙に久々だった。


 最近のサミエムはずっと張り詰めていたから。


「前衛だけじゃ無理だ」


 短く言う。


「お前が必要だ」


 灰崎は少し黙る。


 照れ臭い。


 けれど。


 どこか引っかかった。


 言い方。


 妙に理屈っぽい。


 感謝なのに。


 計算みたいだった。


 前のサミエムなら。


 もっと雑だった。


 肩叩いて、


「助かった!」


 くらいだったはずだ。


 チリン。


 鈴。


 妖精がまた鳴らす。


 今度は。


 少し右へ飛んだ。


 道を変える。


 そして。


 こちらを見る。


 待つ。


「……分かってたのか」


 灰崎が呟く。


 腐った根。


 罠。


 崩落。


 全部。


 門番は知っていた?


 けれど教えない。


 気づくかどうか。


 それを見る。


 試験。


「性格悪ぃな……」


 小さく吐く。


 だが。


 少しだけ理解もした。


 ここへ入る者を選ぶなら。


 確かに。


 考えない奴は死ぬ。


 そして。


 鈴の音は再び鳴る。


 霧のさらに奥。


 巨大な根の道は、まだ終わりが見えなかった。

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