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【怠惰の章】霧根の道(一)

 チリン。


 鈴の音が鳴った。


 高くもなく、急かすようでもない。


 けれど確かに、「止まるな」と言っていた。


 灰崎は肩で息をしながら顔を上げた。


 森は静まり返っている。


 つい数分前まで殺意に満ちていた空気が、嘘みたいに引いていた。


 樹上に潜んでいたあの怪物たちは消えた。


 完全に。


 枝葉は揺れず、気配もない。


 だが安心感はまるでなかった。


 むしろ逆だ。


 今の静寂には、別種の怖さがある。


 森が息を潜めている。


 そんな感覚。


 まるで何か巨大なものが近くにいて、他の生物全部が気配を殺しているような。


「……逃げたな」


 壮年の諜報員が低く呟いた。


 肩で息をしながら周囲を警戒している。


 鎧には深い裂傷。


 樹上捕食者の鎌が掠めた跡だ。


「いや」


 サミエムが短く否定した。


 剣についた緑黒い体液を払う。


「逃げたんじゃない」


 周囲を見る。


 上。


 枝。


 風向き。


 地形。


 何かを計算するような目。


「退いた」


「何が違うんだ」


 灰崎が聞く。


 サミエムは少し黙る。


 そして。


「怖がってる」


 短く言った。


 その言葉に空気が少し張った。


「……あれが?」


 灰崎は思わず聞き返す。


 あの怪物だ。


 樹皮みたいな装甲。


 鎌の腕。


 群れ。


 待ち伏せ。


 賢さ。


 正直、大森林に入ってから戦った相手の中でもかなり危険だった。


 それが怯える?


「上位捕食者が近い」


 サミエムは空を見た。


 見えない天蓋。


 厚すぎる枝葉。


 なのに。


 確かに圧迫感だけがある。


 重い。


 空気が。


「さっきの鳴き声か」


 地図係の女が言う。


 誰も答えなかった。


 答えたくなかった。


 ギィィィィィィイイイイイッ――。


 あの音を思い出すだけで胃が縮む。


 理屈じゃない。


 本能だ。


 近づきたくない。


 死ぬ。


 そう思わせる何か。


 チリン。


 妖精がまた鳴らした。


 少し先。


 枝に腰掛けるように浮いている。


 相変わらず感情が見えない。


 小さな身体。


 光を帯びた羽。


 人に似ていて、人じゃない。


 まるで森の一部みたいだった。


 そして。


 また少し進む。


 止まる。


 振り返る。


 待つ。


「……急かしてるな」


 灰崎が呟く。


「急かしてるというより」


 地図係が息を整えながら言った。


「試験の続きをやらされてる感じ」


 それは妙にしっくり来た。


 さっきの戦闘。


 あれもそうだ。


 妖精は助けなかった。


 安全地帯だけ示した。


 正解を教えるでもなく、間違いを罰するでもなく。


 ただ。


 “見ていた”。


 試験官。


 門番。


 そんな言葉が頭をよぎる。


 灰崎は妖精を見る。


「お前さ」


 当然返事はない。


「どこまで試す気なんだよ」


 妖精は少し首を傾げたように見えた。


 気のせいかもしれない。


 次の瞬間。


 チリン。


 また鈴。


 そして霧の方へ飛ぶ。


「……行くぞ」


 サミエムが歩き出した。


 即断。


 迷いがない。


 だが。


 歩幅が少し不自然だった。


 灰崎は気づく。


 疲れている。


 相当。


 呼吸が深い。


 汗の量も多い。


 なのに本人は止まる気がない。


「おい」


 声を掛ける。


「休むか?」


「必要ない」


 即答。


 早すぎる。


「いや必要あるだろ」


「まだ動ける」


「そういう話じゃ――」


「灰崎」


 サミエムが初めて振り返った。


 その目に少しだけ苛立ちがあった。


 けれど。


 すぐ消える。


 何かに気づいたみたいに。


「……悪い」


 ぽつり。


 珍しい言葉だった。


「余裕がない」


 灰崎は少し言葉を失う。


 サミエムは昔から謝らない。


 いや、謝れない男だった。


 間違っていても前に進む。


 自分を削ってでも進む。


 そういう奴だ。


 なのに今。


 自分で分かっている。


 壊れ始めていることを。


「……最近変だぞ」


 灰崎が言った。


 歩きながら。


 小声で。


「変?」


「お前」


 少し言葉を探す。


「考えすぎ」


 サミエムの足が少しだけ止まる。


「前はもっと勢いだったろ」


「雑ってことか?」


「違う」


 灰崎は少し笑う。


「熱かった」


 短い沈黙。


 湿気の中。


 足音だけが響く。


 サミエムは少し目を伏せた。


「……熱さで負けた」


 低い声。


「嫉妬帝にな」


 空気が重くなる。


「だから考えるようにした」


「それ霊帝の抱擁のせいか?」


 初めて口にした。


 禁忌。


 合理性だけを残す力。


 サミエムの肩が僅かに止まる。


「……分からん」


 小さい声だった。


「でも最近、自分が少し遠い」


 灰崎は返せなかった。


 冗談にできない。


 軽くも言えない。


 怖かった。


 このまま少しずつ。


 サミエムが“サミエムじゃなくなる”気がして。


 チリン。


 鈴。


 前方。


 妖精が止まっていた。


 その先。


 森が変わる。


 急だった。


 木々が減る。


 視界が開ける。


 風。


 霧。


 そして。


 巨大な根。


 山ほども太い根が断崖へ絡み合い、一本の道みたいになっていた。


 自然物のはずなのに。


 不自然なほど歩きやすい。


 けれど。


 少し外れれば終わり。


 下は白。


 底がない。


「……うわ」


 灰崎が思わず声を漏らす。


 高所がどうとかじゃない。


 規模がおかしい。


 根一本が街道並みに広い。


 その先が霧へ消えている。


「ここ通るのかよ……」


 チリン。


 妖精が先へ飛ぶ。


 止まる。


 待つ。


 そしてまた鳴らす。


 まるで。


 ――次だ。


 そう言うように。

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