【怠惰の章】魂の灯火
チリン。
鈴の音が霧の断崖へ響く。
だが立ち止まる暇などなかった。
背後。
空気が裂ける。
「上だ!!」
灰崎が叫ぶ。
見えた。
魂だ。
黒ずんだ濁流のような生命反応が三つ、枝から落ちてくる。
魂術師の目には、命は色を持つ。
人は複雑に揺れ、魔物は濁り、凶暴性を帯びる。
今降ってきたそれは、明らかに異質だった。
獲物を狩る色。
殺意に偏り切った魂。
「右二、正面一!」
灰崎の怒声。
サミエムが即座に動く。
剣閃。
銀が走る。
正面へ落下した樹上魔物の鎌が弾かれ、火花が散った。
だが灰崎はそこを見ていない。
右。
もう二体。
死角から諜報員を狙っていた。
「動くな!」
掌を突き出す。
魂術発動。
空気が青白く揺れた。
『縛れ――魂鎖』
霊光が奔る。
青白い鎖が空間から出現し、木々を跳ぶ怪物へ巻き付いた。
ギチッ――!!
鈍い悲鳴。
だが完全には止まらない。
「硬っ……!」
予想以上だった。
魂そのものが重い。
まるで太い根を拘束しているみたいな抵抗感。
外殻だけではない。
生命力が異様に強い。
「一瞬だけだ!」
叫ぶ。
その瞬間。
サミエムが消えた。
踏み込み。
速い。
鎖で止まった個体の懐へ入り込む。
横薙ぎ。
斬撃。
脚が飛ぶ。
緑黒い液体が散った。
魔物が木へ叩きつけられる。
だがもう一体。
鎌。
諜報員の首筋へ。
「っ!」
灰崎が歯を食いしばる。
間に合わない。
なら。
『偏せ――魂圧』
霊力が爆ぜる。
見えない衝撃。
魔物の身体が僅かに逸れた。
鎌が諜報員の肩を掠める。
「ぐぁっ!」
「下がれ!」
壮年の諜報員が引きずる。
サミエムが飛ぶ。
一閃。
怪物が吹き飛ぶ。
「助かった……!」
「礼は後だ」
サミエムが短く言う。
息が荒い。
汗が増えている。
なのに止まらない。
剣先は微塵も鈍らない。
冷静。
正確。
合理的。
最近の違和感がまた胸を刺す。
前のサミエムならもっと荒かった。
泥臭かった。
感情で飛び込む男だった。
今は違う。
最短で殺す。
損害を減らす。
計算。
効率。
そればかりだ。
チリン。
妖精の鈴。
前。
また移動する。
「まだ進ませる気かよ!」
灰崎が舌打ちする。
すると。
妖精が止まった。
振り返る。
そして。
鈴を二度鳴らす。
チリン。
チリン。
サミエムの目が細まった。
「……違う」
「何が」
「警告だ」
次の瞬間。
森が揺れた。
枝が裂ける。
上空。
何か巨大な質量が移動する音。
風圧。
地鳴り。
全員が顔を上げた。
見えない。
だが分かる。
さっきの咆哮の主だ。
遠い。
けれど近い。
森全体が怯えていた。
そして。
樹上魔物たちが動きを止めた。
明らかな変化。
殺意が消える。
怯え。
逃走。
木々へ散っていく。
「……何だ?」
灰崎が呟く。
サミエムが森を見る。
「捕食者」
短い返答。
「上位が来た」
全員が黙る。
つまり。
こいつらですら逃げる相手。
考えたくなかった。
チリン。
妖精がまた鳴らす。
今度は急かすように。
前。
断崖沿い。
「急げってか」
灰崎が息を吐く。
サミエムが頷く。
「行く」
そして少しだけ間。
視線が灰崎へ向く。
「……助かった」
「は?」
「感知」
短い言葉。
「前より精度が上がったな」
灰崎は少し目を瞬く。
珍しかった。
最近のサミエムは、人を褒めない。
というより余裕がなかった。
「お、おう」
「次も頼む」
それだけ言って歩き出す。
少しだけ。
本当に少しだけ。
昔のサミエムが戻った気がした。
チリン。
妖精が霧の奥へ飛ぶ。
断崖の先。
視界の端。
一瞬だけ。
また巨大な影が見えた。
山のような何か。
木々を纏い。
ゆっくりと。
――動いていた。




