【怠惰の章】鈴の示す道
ギィィィィィィイイイイイッ――!!
咆哮が森を揺らした。
空気が震える。
腹の奥にまで響く重低音。
枝葉がざわめき、湿った熱気が押し流される。
「っ……!」
灰崎は反射的に肩を強張らせた。
本能が警鐘を鳴らす。
危険。
理解するより早く、身体がそう叫んでいた。
諜報員たちも一斉に武器へ手を伸ばいている。
誰もが空を見上げた。
だが、見えない。
天蓋が厚すぎる。
何重にも絡み合う枝葉が視界を塞ぎ、上空の様子を隠している。
それでも分かった。
何かがいる。
巨大な何か。
空気そのものが押し潰されているような圧迫感。
風が変わる。
葉が震える。
木々が軋む。
その瞬間。
――ドゴン!!
遠くで地面が揺れた。
何かが落ちた音。
いや、砕けた音だ。
岩盤が崩れるような轟音。
「……何だ今の」
誰かが掠れ声で言う。
答える者はいない。
ただ。
チリン。
妖精だけが静かに鈴を鳴らした。
数メートル先。
枝の上。
こちらを見ている。
感情の見えない顔。
けれど今だけは妙にはっきりしていた。
急げ。
そんな意思。
妖精がふわりと飛ぶ。
森の右奥へ。
少し速い。
待つ時間も短い。
「……行けってか」
灰崎が呟く。
「いや」
サミエムが低く言った。
「逃がしてる」
短い言葉だった。
だが誰も異論を挟まない。
今の咆哮。
あれは危険だ。
説明不要なほどに。
「移動」
サミエムが手を上げる。
「隊形維持。速度上げる」
「了解!」
一行は走り始めた。
ぬかるみを蹴る。
根を飛び越える。
熱気で呼吸が重い。
汗が滲む。
それでも全員、速度を落とさなかった。
妖精は少し先。
絶妙な距離。
見える。
追える。
だが油断すれば見失う。
そんな距離感を維持している。
チリン。
止まる。
振り返る。
また飛ぶ。
その繰り返し。
まるで。
試しながら導いている。
「……本当に門番みてぇだな」
灰崎が息を切らしながら言う。
サミエムが小さく頷いた。
「資格確認だろう」
「資格?」
「冷静さ」
短い返答。
「焦って突っ込めば終わる」
灰崎は少し周囲を見る。
確かに。
道が違う。
いや、“道”という概念すらない。
木々は密集し、根は入り乱れ、進みやすい場所など存在しない。
だが妖精の進む方向だけ、微妙に開けていた。
完全な安全地帯ではない。
歩きづらい。
枝も邪魔だ。
それでも。
“まだマシ”。
そんな程度。
少しでも外れれば、急に地面が沈む。
巨大植物が行く手を塞ぐ。
棘。
毒草。
異臭。
環境そのものが牙を剥く。
「……これ」
地図係の女が呟く。
「誘導じゃなくて選別ね」
「どういう意味だ?」
灰崎が聞く。
「正解を教えてるんじゃない」
女は周囲を見る。
「間違いを踏ませてる」
少し背筋が寒くなった。
つまり。
考えろ。
見ろ。
学べ。
そういうことか。
妖精は万能じゃない。
ただ。
門番として最低限のヒントだけ与えている。
そして。
その時だった。
前方で妖精が止まった。
チリン。
鈴。
枝の先。
そして。
下を指差すように浮かぶ。
「……何だ?」
灰崎が近づく。
そこにあったのは――。
巨大な抉れ。
地面が削れていた。
木々が薙ぎ払われている。
まるで巨大な何かが通ったような。
その先には。
砕かれた岩。
粉々だった。
拳大。
砂利状。
まるで咀嚼されたみたいに。
「……食った?」
誰かが呟く。
サミエムがしゃがみ込む。
岩を拾う。
砕け方を見る。
少し黙った。
「自然じゃない」
「魔物?」
「恐らく」
そこで少し目を細める。
考えるように。
「……いや」
ぽつり。
「分からん」
その言葉に灰崎は少し違和感を覚えた。
最近増えている。
“分からない”が。
以前のサミエムは違った。
自信があった。
迷わなかった。
今は考えすぎている。
あるいは。
何かを無理に抑えている。
チリン。
鈴が鳴る。
妖精が今度は左を向く。
だが。
その瞬間。
森が静まった。
風が止む。
虫が止まる。
鳥もいない。
湿った熱気だけが残る。
サミエムの顔が変わった。
「止まれ」
声が低い。
全員停止。
「武器を抜け」
空気が張る。
灰崎も剣へ手をかける。
「何だ」
返答はない。
サミエムが上を見ていた。
木々。
枝。
影。
そして。
ぽたり。
何かが落ちた。
液体。
透明。
粘つく。
灰崎の肩へ落ちる。
「……何だこれ」
見上げた。
暗い。
だが。
いた。
枝と同化するように。
巨大な影。
複数の目。
樹皮みたいな外殻。
鎌のような腕。
音もなく張り付いていた。
そして。
目が合う。
次の瞬間。
サミエムが叫んだ。
「散れ!!」




