【怠惰の章】追跡の資格
妖精が速くなった。
ほんの少し。
だが確実に。
ふわり、ふわりと漂っていた飛び方が変わる。木々の隙間を縫うように飛び、止まる時間が短くなった。
チリン。
鈴の音。
次の瞬間にはもう枝の向こう。
「……待てって!」
灰崎が思わず声を上げる。
だが妖精は止まらない。
いや、止まる。
少しだけ。
振り返る。
そしてまた飛ぶ。
まるでこちらの速度を測っているようだった。
「急ぐな!」
サミエムの声が飛ぶ。
全員の足が止まる。
前に出かけていた灰崎が舌打ちした。
「でも見失うぞ!」
「だから急ぐな」
短く、強い声。
サミエムは森を睨んでいた。
額には汗。
だが目だけが妙に冷静だった。
「見失うかどうかを試されてる」
「は?」
「焦った奴から脱落する」
灰崎は眉を寄せる。
妖精はまた先で止まり、枝に腰掛けるように浮いている。
逃げていない。
追いつけないほど速くもない。
だが、追い立てるような距離感。
確かに。
妙だった。
「……走れば追いつけそうなんだよな」
壮年の諜報員がぼそりと呟く。
「だが走らせたいようにも見える」
地図係が続けた。
「嫌な誘導ね」
チリン。
妖精がまた鳴らす。
今度は少し高い音。
そして左へ。
サミエムが足を止めた。
「待て」
「何だ?」
「左は違う」
全員が振り返る。
「何で分かる」
灰崎が聞く。
サミエムは少し黙る。
そして周囲を見る。
「……匂い」
「匂い?」
「湿気が強い」
木の根元を指差した。
「ぬかるみも深い」
確かに。
左側だけ地面が沈んでいる。
葉の色も少し濃い。
「魔物が寄る環境だ」
「じゃあ妖精が誘ってるんじゃ?」
「違う」
即答だった。
「試してる」
灰崎が顔をしかめる。
「試験官ってわけか」
「たぶんな」
そこでサミエムがふと口を閉じた。
自分の言葉に少し引っかかったような顔をする。
「……いや」
小さく額を押さえる。
「分からん」
「おい」
「最近、頭が回りすぎる」
ぽつりと言った。
誰もすぐ返せなかった。
サミエム自身が困惑している顔だった。
「前なら感覚で決めてた」
目を伏せる。
「今は、無駄に理由を探す」
小さな沈黙。
灰崎は言葉に詰まった。
それはきっと――霊帝の抱擁。
あの禁忌。
合理性だけが残るという力。
感情が削れる代償。
最近の違和感の正体が少しずつ輪郭を持ち始めていた。
「……でも」
灰崎が言う。
「さっき感覚で止めただろ」
サミエムが顔を上げる。
「静かすぎるとか」
「……ああ」
「それでいいんじゃねえの」
少しの沈黙。
サミエムは珍しく考えるような顔をした。
そして小さく息を吐く。
「お前、時々雑なのに核心を突くな」
「雑は余計だ」
「事実だろ」
ほんの少しだけ。
空気が緩む。
後ろの諜報員が小声で言う。
「少し戻ったな」
「聞こえてる」
サミエムが即座に返した。
以前の軽いテンポ。
ほんの数秒。
だが確かにそこにあった。
チリン。
妖精が鳴らす。
待ちくたびれたと言わんばかりに枝の上で足を揺らしていた。
「……煽ってんのかあれ」
灰崎が呟く。
すると。
妖精が突然消えた。
「っ!?」
視界から消失。
「索敵!」
サミエムの声。
諜報員たちが一斉に散る。
灰崎も周囲を見る。
右。
左。
前。
いない。
チリン。
真後ろ。
全員が振り返る。
妖精がいた。
しかも近い。
三メートルほど。
木の幹に座り、こちらを見ている。
顔は相変わらず曖昧。
だが。
笑っている気がした。
「近っ!」
灰崎が思わず声を上げる。
次の瞬間。
妖精が飛ぶ。
一直線。
今度は右。
「追うぞ!」
サミエムが言う。
だが速度は落ち着いている。
急がない。
焦らない。
先行諜報員が地面を見る。
「隊長!」
「何だ」
「足跡です!」
全員が止まる。
そこにあったのは巨大な爪痕。
深い。
岩すら抉っている。
「……魔物か」
灰崎がしゃがみ込む。
妙だった。
古い。
だが完全には風化していない。
「鳥類?」
地図係が言う。
「いや」
サミエムが周囲を見る。
「岩を砕いた跡だ」
視線の先。
大木の根元。
大量の細かな石片。
まるで巨大な何かが噛み砕いたような。
「……食った?」
灰崎が呟く。
その瞬間。
遠く。
空のない森の上層から。
ギィィィィィィイイイイイイイッ!!
耳を裂くような鳴き声が響いた。
空気が震える。
木々が揺れる。
全員の顔色が変わる。
「……何だ今の」
誰も答えない。
ただ。
妖精だけが。
チリン。
静かに鈴を鳴らした。
まるで。
――まだ早い。
そう言うように。




