【怠惰の章】見失う森
妖精が笑った――ように見えた。
いや、本当に笑ったのかは分からない。
輪郭が曖昧なのだ。
顔立ちは人型に見えるのに、感情だけが霧みたいに掴めない。
笑った気もする。
無表情だった気もする。
ただ確かなのは。
背筋が冷えた。
チリン。
鈴が鳴る。
妖精はまた少し先へ飛んだ。
枝の隙間をすり抜け、振り返り、止まる。
待つ。
そして、こちらが動くとまた先へ行く。
まるで散歩に付き合わされているようでいて、実際は逆だ。
導かれている。
いや。
見定められている。
そんな感覚だった。
「……気持ち悪ぃ」
灰崎がぼそりと呟く。
隣のサミエムが小さく頷いた。
「同感だ」
声が少し低い。
疲れている。
顔色もあまり良くない。
だが足は止まらない。
森を睨みながら歩き続ける。
諜報員たちも同様だった。
進行速度は遅い。
先行二名。
左右警戒。
後方確認。
時折地面を調べ、痕跡を記録しながら進む。
慎重すぎるくらい慎重だった。
だが、それでも妙だった。
異常がない。
何も起きない。
大森林に入ってから初めてと言っていいほど、平穏だった。
だからこそ不気味だった。
しばらく進んだ頃。
前方の妖精が突然消えた。
「――止まれ」
サミエムの声。
全員が即座に静止する。
「消えたぞ」
諜報員が低く言う。
「視界からロスト」
「気配は?」
「なし」
森が静まる。
熱気。
湿度。
汗が首を伝う。
葉擦れだけが微かに鳴っていた。
灰崎は周囲を見回す。
何もない。
巨大な木々。
根。
ぬかるみ。
どこも同じ景色。
「……帰ったか?」
「いや」
サミエムが低く言った。
「待て」
少し前へ出る。
しゃがみ込む。
地面を見る。
「足跡?」
灰崎が聞く。
「違う」
サミエムは木の根元を指差した。
「ここ」
近づく。
そこには――。
苔が削れていた。
小さく。
不自然に。
「何だこれ」
「目印だろう」
地図係が膝を折る。
「意図的」
削れた箇所は三本線。
偶然ではない。
「妖精?」
灰崎が聞く。
「分からん」
サミエムは立ち上がる。
「だが進行方向を示してる」
視線の先。
木々の密度が少し薄い。
「行くぞ」
再び歩き出す。
今度は妖精がいない。
鈴も鳴らない。
ただ森だけがある。
その数分後だった。
チリン。
突然、右後方から音が鳴った。
「っ!」
全員が振り向く。
いた。
妖精。
十数メートル先。
枝に座り、こちらを見ている。
「……後ろ?」
灰崎が眉を寄せる。
「さっき前にいたろ」
「試してるな」
サミエムが即答する。
だが、その声に少しだけ苛立ちが混ざっていた。
「一本道を作る気はないらしい」
妖精がふわりと飛ぶ。
だが今度は左。
すぐ消える。
そしてまた鳴る。
チリン。
今度は前。
「うぜぇな……!」
灰崎が思わず言う。
「完全に遊ばれてるじゃねえか」
「遊びではない」
サミエムが森を見回す。
目が鋭い。
「確認だ」
「何を?」
「俺たちの動き」
短く息を吐く。
「焦るか。疑うか。離れるか」
そこで少し言葉が止まる。
「……あるいは」
目を細める。
「“見る力”」
「見る力?」
「法則を見抜けるか」
灰崎は顔をしかめた。
難しい言い方をする。
だが。
何となく分かった。
追えばいいわけじゃない。
考えず突っ込めば見失う。
何か規則がある。
そういうことだ。
チリン。
再び音。
今度は少し遠い。
妖精が森の奥へ進む。
「待て」
サミエムが手を上げた。
全員停止。
「どうした」
「……静かすぎる」
またそれだ。
だが今回は灰崎も分かった。
音がない。
不自然なくらい。
「半径二十メートル」
サミエムが言う。
「生命反応が消えてる」
「さっきから言ってたやつか」
「ああ」
地図係が周囲を確認しながら呟く。
「しかも規則的ね」
「規則?」
灰崎が聞く。
「ここだけ温度が低い」
確かに。
少し涼しい。
熱帯みたいな熱気が薄れていた。
「十分ほど前は暑かった」
「……ほんとだ」
「区域で変わってる」
サミエムが低く言う。
「環境が切り替わってる」
熱帯。
静穏地帯。
魔物密集区域。
そして今。
不自然な冷気。
「誰かが整備してるみたいだな」
灰崎が言うと、
「違う」
サミエムが即答した。
少し間。
「循環してる」
「循環?」
「森そのものが機能してる」
そこで彼はふと黙る。
そして。
ぽつりと。
「……生き物みたいだ」
その言葉に、誰も笑わなかった。
なぜか。
妙に納得してしまったからだ。
チリン。
また鈴。
妖精が今度は遠くの枝からこちらを見ていた。
そして。
くるり、と背を向ける。
森の奥へ消える。
今度は少しだけ速かった。
まるで。
――付いてこられる?
そう試すように。




