【怠惰の章】門番の鈴
チリン。
鈴の音が、森の奥へ消えていった。
小さな妖精は、若木の枝先にふわりと留まり、こちらを見ている。
光を帯びた薄羽が微かに揺れていた。
掌ほどの身体。
人型に見える輪郭。
だが表情だけが妙に曖昧だった。
笑っているようにも見える。
無表情にも見える。
歓迎しているようで、試しているようでもあった。
そして何より――待っている。
急かしもしない。
逃げもしない。
まるで、
「来るなら来い」
そう言っているようだった。
灰崎は思わず眉を寄せる。
「……何なんだ、あれ」
妖精は何も言わない。
ただ風に漂いながら、鈴を小さく鳴らしている。
チリン。
その音だけが不自然に鮮明だった。
森の湿気を裂いて、耳へ届く。
近いようで遠い。
優しいようで冷たい。
何とも言えない音だった。
「隊長」
諜報員の一人が低く言う。
「どうします」
全員の視線がサミエムへ向く。
森が静かだった。
鳥も鳴かない。
虫も少ない。
湿った熱気だけが肌へまとわりつく。
サミエムは妖精を見たまま答えなかった。
珍しく、長い沈黙だった。
眉間に皺が寄っている。
考えている。
それもかなり慎重に。
灰崎は少しだけ違和感を覚えた。
以前なら即断していた。
危険でも前へ進む男だった。
迷ったとしても、それを表に出すことはない。
なのに最近のサミエムは違う。
考え込み、止まる。
時折、迷う。
まるで自分の判断に確信を持てなくなっているみたいに。
「……追うべきだと思うか?」
サミエムがぽつりと言った。
その場が少し静まる。
灰崎が目を瞬く。
「お前が聞くのか?」
「聞いてる」
静かな声。
少し疲れているようにも見えた。
諜報員たちは顔を見合わせた。
最初に口を開いたのは壮年の男だった。
「伝承通りなら当たりです」
「ただ」
地図係の女が続ける。
「都合が良すぎる」
腰に差した短剣を指先で軽く叩く。
「移動する大樹を探して数日。急に妖精が現れて“こちらです”は、逆に怪しい」
「罠の可能性か」
「高い」
短く即答。
「この森は人を歓迎しない。今まで散々そうだった」
確かに。
大森林に入ってからというもの、まともなことが一つもない。
異常な湿度。
毒を持つ植物。
縄張り意識の強い魔物。
方向感覚の狂う地形。
熱波。
突然変わる環境。
生きているだけで疲弊する場所。
そんな場所が急に優しくなる理由がない。
「追うなら試されてると思った方がいい」
女は続ける。
「導きじゃなく、選別」
チリン。
妖精が鈴を鳴らした。
まるで会話を聞いているみたいなタイミングだった。
灰崎が眉をひそめる。
「気味悪ぃな……」
妖精はふわりと浮き、数メートル先へ移動する。
止まる。
振り返る。
待つ。
そしてまた鈴。
チリン。
「……あからさま過ぎるだろ」
灰崎が言う。
「でも逃げないんだよな」
諜報員がぼそりと呟く。
「普通、警戒されたら距離取る」
「それだけ自信があるか」
「あるいは」
サミエムが口を開く。
視線は妖精のまま。
「俺たちがどう動くか分かってる」
沈黙。
妙に嫌な言い方だった。
「試されてるってことか?」
灰崎が聞く。
「かもしれない」
短い返答。
そこでサミエムが少し黙る。
呼吸が浅い。
汗が増えていた。
だが本人は気づいていないようだった。
額に手を当て、小さく目を閉じる。
「……っ」
「おい?」
「何でもない」
即答。
少し間を置いてから、
「最近、熱がきついだけだ」
と言った。
灰崎は眉を寄せる。
違う。
ただ疲れてる顔じゃない。
もっと奥。
神経が擦り減ってるような顔だった。
だが言っても聞かない。
そんなことは分かっている。
「隊長」
壮年の諜報員が言う。
「判断を」
数秒。
沈黙。
そしてサミエムが小さく息を吐いた。
「……追う」
全員が姿勢を正す。
「ただし速度は落とす。妖精を見失わない程度」
「戦闘隊形維持」
「左右警戒強化」
「違和感があれば即報告」
淡々と指示が飛ぶ。
迷いが消えた。
決断すると早い。
そこは変わらない。
「行くぞ」
チリン。
まるで返事のように鈴が鳴った。
妖精が森の奥へ飛ぶ。
低空。
見えるか見えないか絶妙な距離。
近すぎない。
遠すぎない。
追えば見える。
止まれば消える。
そんな距離感だった。
隊列がゆっくり進み始める。
草木をかき分けながら、一歩ずつ。
熱気が濃い。
汗が服へ張り付く。
足元はぬかるみ。
根が絡む。
歩きづらい。
だが、少しして灰崎は違和感を覚えた。
「……あれ」
「どうした」
隣のサミエムが聞く。
「魔物がいない」
静かすぎる。
さっきまで遠くに感じていた気配すら消えていた。
鳥もいない。
唸り声もない。
葉擦れすら薄い。
森が息を止めているみたいだった。
サミエムが周囲を見る。
「法則か」
「法則?」
「中心へ近づくほど減ってる」
灰崎は少し考える。
確かにそうだった。
序盤は襲撃ばかりだった。
だが数日進むうち、妙に静かな区域が増え始めている。
「縄張り?」
「違う気がする」
サミエムが低く言う。
「避けてる」
「何を?」
少しの沈黙。
そして。
「……あの妖精」
チリン。
まるで答えるように、鈴が鳴った。
灰崎の背筋に冷たいものが走る。
振り返った妖精が、一瞬だけ笑った気がした。




