【怠惰の章】導きの鈴
チリン。
湿った森の空気を裂くように、澄んだ音がまた鳴った。
掌ほどの小さな影は木々の隙間を縫うように飛び、少し先で止まる。振り返るようにこちらを見て、またふわりと浮いた。
妖精だった。
伝承にのみ存在する存在。
ユグドラシルを導くとされる、小さな案内人。
灰崎は思わず息を呑んだ。
実在した。
そういう驚きもあったが、それ以上に――異様だった。
森が静かすぎる。
妖精の周囲だけ、音が薄い。
羽音すらほとんど聞こえないのに、鈴の音だけが不自然なくらい鮮明だった。
「……どうする」
背後で諜報員の一人が低く言った。
誰も即答しない。
妖精は数十メートル先の枝に止まり、こちらを見ている。
逃げない。
威嚇もしない。
ただ待っている。
まるで――付いてこい、と言うように。
「伝承通りなら当たりだな」
別の諜報員が囁く。
「だからこそ怪しい」
短く返したのは地図係の女だった。
「森に入ってから何度死にかけたと思ってる。今さら“はい、案内します”なんて都合が良すぎる」
もっともだった。
この大森林は、人を歓迎する場所じゃない。
熱気、毒、魔物、視界不良。
まるで異物を拒むように出来ている。
そんな場所で突然、伝承通りの存在が現れる。
罠を疑うのが普通だ。
灰崎は妖精を見つめる。
光る羽。
細い指。
幼い少女のような輪郭。
だが顔立ちは曖昧で、どこか人間離れしていた。
感情が読めない。
笑っているようにも見えるし、無表情にも見える。
「サミエム」
灰崎が横を見る。
「どう思う」
サミエムは妖精を見たまま、少し黙った。
昔の彼なら、即座に結論を出していたかもしれない。
だが今は違った。
数秒、考える。
そして小さく息を吐いた。
「……追う」
諜報員たちが顔を上げる。
「ただし慎重にだ」
「理由は?」
地図係が聞く。
「無視できない」
サミエムは続ける。
「伝承との一致。魔物分布の異常。地形変化。全部が中心部を示してる」
そこで少しだけ言葉が止まった。
眉が僅かに寄る。
「……それに」
何か言いかけて、止めた。
「いや」
「何だよ」
灰崎が聞く。
サミエムは少し迷ったような顔をして、
「感覚だ」
と言った。
その場の空気が少し止まった。
灰崎が目を瞬く。
諜報員たちも僅かに驚いている。
サミエム自身が一番困った顔をした。
「……変な顔するな」
「いや、お前が感覚とか言うんだなって」
「自分でも言ってて違和感ある」
珍しく自嘲気味だった。
少しだけ、昔のサミエムっぽい。
「だが」
彼は妖精を見る。
「行かなきゃいけない気がする」
静かな言葉だった。
合理でも、効率でもない。
ただの直感。
それを口にしたこと自体が、灰崎には妙に引っかかった。
霊帝の抱擁。
あれを使ってからサミエムは変わった。
感情が削れている。
余裕が減っている。
なのに今、少しだけ“戻った”気がした。
いや。
違う。
無理やり戻そうとしているような。
そんな危うさ。
地図係が肩を竦めた。
「隊長命令なら従う。ただし進軍速度は落とす。索敵優先」
「賛成だ」
壮年の諜報員が頷く。
「俺もだ」
「異論なし」
すぐに方針が決まる。
流石は精鋭だった。
決断が早い。
だが、焦らない。
サミエムは妖精へ視線を向けた。
「……進む」
チリン。
まるで返事のように、鈴が鳴る。
妖精が再び飛び上がった。
低い。
見失わない程度の速度。
本当に誘導しているようだった。
隊列が再編される。
先頭は諜報員二人。
中衛に灰崎とサミエム。
後方警戒を数名。
完全戦闘隊形。
それでも歩みは遅かった。
一歩一歩、森を確認しながら進む。
そして気づく。
空気が違う。
「……静かだな」
灰崎が小さく言う。
サミエムも頷いた。
「近づいてる」
「何に?」
「中心に」
それ以上は言わない。
だが皆分かっていた。
魔物が減っている。
正確には、“いない”。
さっきまで感じていた気配が嘘みたいに消えていた。
枝が揺れない。
唸り声もない。
殺気すらない。
森が空白になっている。
「逆に怖ぇな……」
諜報員の一人が呟いた。
「縄張りの王でもいるのか」
「それならまだいい」
地図係がぼそりと言う。
「問題は、王が何匹も逃げる相手だった場合」
誰も笑わなかった。
十分あり得る。
この森の規模なら。
灰崎は足元を見る。
土が変わっていた。
ぬかるみが少ない。
根の絡まり方も整っている。
「なあ」
しゃがみ込む。
「これ見ろ」
諜報員が近寄る。
「……踏まれてる?」
「いや」
灰崎は土を指先で触る。
「固い」
不自然なくらい。
この湿地であり得ないほど。
「整地されてるみたいだ」
サミエムが膝を折る。
土を確認し、眉を寄せた。
「人工的だな」
そこでまた。
チリン。
妖精が少し先で止まっていた。
待っている。
急かすでもなく。
焦らせるでもなく。
ただ、“当然そこへ行くもの”として。
灰崎はぞくりとした。
導かれている。
そんな感覚。
知らない場所へ連れていかれているのに、不思議と拒絶感が薄い。
嫌な感じではない。
むしろ――安心感に近い。
「……気味悪ぃ」
思わず漏れる。
「何がだ」
サミエムが聞く。
「怖くねえんだよ」
灰崎は森を見る。
「普通もっと警戒するだろ。でも何か……」
言葉を探す。
「帰る場所に向かってる気分になる」
沈黙。
数秒後。
サミエムが小さく言った。
「……分かる」
その声音は妙に静かだった。
そして次の瞬間。
先頭の諜報員が急停止する。
片手を上げた。
全員が武器に手を掛ける。
視線の先。
木々が途切れていた。
ぽっかりと。
そこだけ森が開いている。
巨大な空間。
そして中心には――
小さな葉が、一枚。
風もないのに揺れていた。




