【怠惰の章】鈴の音
チリン。
澄んだ音だった。
大森林の湿った空気を裂くように、あまりにも場違いで、あまりにも綺麗な音。
誰も動かなかった。
いや、動けなかった。
森に満ちていた不快な静寂とは別種の、張り詰めた沈黙が落ちる。
「……聞こえたな」
諜報員の一人が低く呟いた。
「ああ」
「方向は?」
「東。いや、少し北寄りか」
即座に周囲の数名が耳を澄ませ始める。
訓練された動きだった。
森では視界より聴覚が物を言う。
特にこのような閉鎖空間では。
灰崎も自然と息を止めた。
だが、二度目の音は鳴らない。
ただ、森だけがじっとこちらを見ているようだった。
「……鈴?」
灰崎が言う。
「魔物の可能性もある」
近くの諜報員が返した。
「音で誘導するタイプか」
「十分あり得る」
そう言いながらも、誰も断定しない。
大森林では“常識”が通用しない。
それを全員が理解していた。
するとサミエムが森の奥を見たまま口を開く。
「確認する」
「行くのか?」
灰崎が聞く。
「放置は危険だ」
「罠かもしれねえぞ」
「だから確認する」
そこで少しだけ言葉が止まる。
サミエムは何か考えるように眉を寄せ、小さく息を吐いた。
「……いや」
珍しく、自分で自分を止めるような間だった。
「全員では動かない」
諜報員たちが視線を向ける。
「三班に分かれる」
地図係の女が即座に紙を広げた。
サミエムは指先で簡単な経路を示す。
「主班はここで待機。周囲警戒を継続」
「第二班は東側から並走」
「第三班は北へ回り込む」
そして灰崎を見る。
「お前は俺と来い」
「俺?」
「感覚が鋭い」
少しだけ言葉を選ぶような間。
「……それに、お前の“違和感”は案外当たる」
灰崎は一瞬だけ目を丸くした。
昔のサミエムなら、感覚論にここまで重きを置かなかった。
いや、違う。
昔から信じてはいた。
ただ、言葉にするタイプじゃなかった。
「珍しく褒めるじゃねえか」
軽く茶化す。
するとサミエムは一瞬だけ口を開き――
「調子に乗るな」
と言った後、少し間を置き、
「……いや、まあ。助かってる」
と付け足した。
その言い方が妙にぎこちない。
灰崎は思わず笑った。
「何だその間」
「うるさい」
短い返答。
だが、少しだけ空気が軽くなる。
諜報員の一人が小声でぼやいた。
「最近ようやく人間味戻ってきたな」
「聞こえてる」
サミエムが即座に返す。
その反応に、何人かが小さく笑った。
ほんの一瞬。
隊の空気が緩む。
だが次の瞬間、全員の表情が戻った。
森は依然として静かすぎる。
警戒は必要だった。
「行くぞ」
サミエムの一声で、小隊が動き出す。
灰崎とサミエム、そして二人の諜報員。
最低限の構成。
草木をかき分けながら、鈴の音がした方角へ進む。
地面はぬかるみ始めていた。
靴が沈む。
湿気がさらに濃くなる。
葉の隙間から落ちる雫が、ぽたりぽたりと肩に当たった。
「静かすぎるな」
灰崎が呟く。
「同感だ」
隣でサミエムが短く返す。
「魔物の気配も薄い」
「避けてる?」
「あるいは、避けさせられてる」
そこで前方を歩いていた諜報員が手を上げた。
停止。
全員がしゃがむ。
「何かある」
低い声。
灰崎は目を細めた。
木々の隙間。
少し開けた空間。
そこだけ妙だった。
地面が荒れていない。
この森ではあり得ないほど、整っている。
蔦も少ない。
雑草も踏み均されたように低い。
まるで“道”。
「……人為的か?」
灰崎が囁く。
「分からん」
サミエムが目を細める。
そして。
チリン。
また鳴った。
今度は近い。
かなり。
灰崎の背筋に冷たいものが走る。
木々の間。
何かがいた。
小さい。
淡く光っている。
羽。
人型。
いや――
「……妖精?」
思わず漏れた言葉。
小さな影が、木陰から顔を覗かせていた。
掌ほどの身体。
透き通る翅。
光を帯びた金色の髪。
その手に、小さな鈴。
目が合う。
ほんの一瞬。
そして。
ふわり、と森の奥へ飛んだ。
逃げるでもない。
誘うように。
振り返りながら。
チリン。
もう一度、鈴が鳴った。




