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【怠惰の章】森の法則

 進むほどに、森は深くなっていった。


 いや、深いという表現すら違うのかもしれない。


 閉じている。


 そう言った方が近かった。


 木々は互いを拒むように枝葉を重ね、空を塞いでいる。陽光は細い刃のようにわずかに差し込むだけで、地表の大半は薄暗い緑の影に沈んでいた。


 湿度はさらに増していた。


 服が肌に張り付く。


 靴底がぬかるみに沈み、踏み出すたびに嫌な音を立てた。


 灰崎は肩を回す。


 疲労が抜けない。


 嫉妬帝との戦いから数日。休息らしい休息もなく、大森林の探索へ放り込まれているのだから当然だった。


 それでも足を止められない。


 止まれば置いていかれる気がした。


 戦争に。


 自分より先へ進む何かに。


 そんな焦燥を振り払うように、灰崎は前を見る。


 隊列は静かだった。


 誰も無駄口を叩かない。


 精鋭である諜報員たちは黙々と周囲を観察し、痕跡を拾い、危険を避けながら進んでいく。


 ただ、その沈黙の奥に疲労が滲んでいるのが分かった。


 足取りが少し重い。


 水筒を口に運ぶ回数が増えた。


 警戒が鈍るほどではない。だが、じわじわと削られている。


「……休憩、入れた方がいいんじゃないか」


 灰崎が小声で言う。


 前方を歩いていた壮年の諜報員がちらりと振り返った。


「珍しいな。お前から言うとは」


「見りゃ分かる。全員きつそうだろ」


「まだ動ける」


「そういう問題じゃねえ」


 男は少しだけ笑った。


「優しいな」


「違ぇよ」


 反射的に返しながらも、灰崎は言葉を切った。


 違う。


 優しさだけじゃない。


 単純に、限界を超えた後の崩れ方を最近見たからだ。


 嫉妬帝戦。


 あの絶望感。


 余裕のない状態で戦えばどうなるか、嫌というほど味わった。


「……判断は隊長に任せる」


 諜報員はそう言って前へ向き直る。


 灰崎も視線を先へ送った。


 隊長格――サミエム。


 相変わらず一定の速度で歩いている。


 姿勢も崩れない。


 だが近くで見ると、少し違和感があった。


 目元。


 ほんの僅かに、疲れている。


 それなのに休まない。


 いや、休もうとしない。


「サミエム」


 灰崎が声を掛ける。


「どうした」


「少し休ませろ」


「……」


 サミエムは少しだけ足を止めた。


 何かを考えるように森を見回す。


「十五分」


 短く言った。


「ただし警戒は維持。周囲半径二十メートル以内に配置」


 諜報員たちが素早く散開する。


 無駄がない。


 灰崎は近くの大きな根に腰を下ろし、息を吐いた。


「助かった……」


 熱がきつい。


 喉も渇く。


 水を飲みながら周囲を見る。


 静かだった。


 相変わらず妙に。


 魔物の気配はある。


 だが遠い。


 近づいてこない。


 森に入った当初のような頻繁な襲撃も減っていた。


 それが逆に不気味だった。


「……なあ」


 灰崎は近くに立つサミエムへ声を掛ける。


「お前も座れよ」


「警戒中だ」


「ずっと張ってても意味ねえだろ」


「意味はある」


 即答。


 だが少しして、


「……いや」


 サミエムが言葉を止めた。


 珍しく迷うような間。


「少しだけ、休む」


 そう言って隣に腰を下ろした。


 灰崎は思わず目を瞬く。


「お前が?」


「そんな顔するな」


「いや、だって」


 以前なら適当に笑って返していただろう。


 だがサミエムは少し困ったような顔をしたあと、小さく息を吐いた。


「……最近、自分でも分からん」


「何が」


「急いでる気になる」


 その言葉に灰崎は黙った。


 サミエムは前を向いたまま続ける。


「時間が足りない。少しでも強くならないといけない。考えるより先に動けって、ずっと頭のどこかで鳴ってる」


 静かな声だった。


 怒りも焦りもない。


 ただ事実を話しているような。


「嫉妬帝戦のせいか?」


「……かもな」


 短い沈黙。


 風が吹いた。


 熱い風だった。


 サミエムが目を閉じる。


「悪いな」


 ぽつりと。


「最近、余裕ない」


 灰崎は少し驚いた。


 謝る男だったか、こいつ。


「別に」


「お前に当たるつもりはないんだが」


「知ってるよ」


 少しだけ空気が和らいだ。


 昔の感じに近い。


 ほんの少し。


 その時だった。


「隊長」


 見張りの諜報員が低く呼ぶ。


 全員の空気が変わる。


「痕跡です」


 サミエムが立ち上がる。


 灰崎も続いた。


 向かった先。


 地面が抉れていた。


 巨大な溝。


 一直線。


 まるで何か巨大なものが這った跡のようだった。


「魔物か?」


 灰崎が聞く。


 諜報員が首を振る。


「違和感があります」


「違和感?」


「古い跡と新しい跡が混ざってる」


 しゃがみ込みながら説明する。


「しかも方向が一定じゃない」


 地面を指差す。


 確かに。


 普通なら進行方向がある。


 だがこれは違う。


 森の中をぐるぐる回っているように見えた。


 灰崎は眉を寄せた。


「……迷ってる?」


「いや」


 サミエムが静かに言う。


「守ってる」


 全員が彼を見る。


 サミエムは森の奥へ視線を向けた。


「この周辺だけ魔物が減っている。地形も変化してる。なら」


 少し間を置く。


「何かを中心に縄張りを形成している可能性が高い」


「つまり……」


「近い」


 短い言葉だった。


 だが空気が変わった。


 探索が前進した。


 誰もがそう理解した。


 同時に、森の圧迫感も増した気がした。


 見られている。


 そんな感覚。


 灰崎は思わず振り返る。


 木々の隙間。


 暗闇。


 誰もいない。


 ――いや。


 何か、小さな光が動いた気がした。


 ぱっと消える。


「……?」


 気のせいか。


 そう思った直後。


 遠くで、鈴のような音が鳴った。


 チリン。


 森には似つかわしくないほど、澄んだ音だった。

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