↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
157/309

【怠惰の章】大森林再び

 森が呼吸していた。


 熱を孕んだ湿った空気が、肺の奥にじっとりと張り付く。枝葉は幾重にも空を覆い、昼間だというのに薄暗い。木漏れ日だけが斑に地面を照らしていた。


 灰崎は額の汗を拭い、深く息を吐く。


「……暑っ」


 思わず漏れた声に、前を歩いていた諜報員が肩越しに笑った。


「まだ入口付近だ。奥はもっと酷いぞ」


「冗談だろ」


「残念ながら事実だ」


 軽口を返しながらも、その男の顔には疲労が滲んでいた。


 強欲帝直属諜報部隊。


 各地の戦場や未開地を潜り抜けてきた精鋭だ。普通の騎士なら半日で音を上げる環境でも、この連中は黙って歩き続ける。


 それでも疲れている。


 それほど、この大森林は異常だった。


 灰崎は周囲を見回した。


 巨木、巨木、また巨木。


 幹の太さは家ほどあり、根は蛇のように地面を這っている。視界の先には巨大なシダ植物が広がり、どこからか聞こえる魔物の唸り声が森全体を震わせていた。


 幻の理想郷ユグドラシル。


 怠惰帝が統べるとされる伝承の国。


 移動する大樹に妖精が導く時、その地は姿を現す――そんな曖昧な話しか残っていない。


 そして問題なのが。


「……全部デカい木じゃねえか」


 灰崎がぼやく。


 横を歩いていたサミエムが視線だけ向けた。


「伝承通りではある」


「目印になってねえって言ってんだよ」


「まあな」


 短く返す。


 その声音は昔と変わらないようで、少し違った。


 サミエムは元々、静かな男ではあった。だが最近は妙に“薄い”。


 感情が抜け落ちているというほどじゃない。


 ただ、以前ならあった余熱のようなものが減っている。


 嫉妬帝との戦いから特に。


 あの敗北以降だ。


 灰崎は前を向きながら言う。


「……疲れてねえのかよ」


「疲れてるさ」


 意外なほど普通の返答だった。


「ならもっと辛そうにしろよ。こっちだけ損してる気分になる」


「お前が顔に出すぎなんだ」


「悪かったな」


 灰崎が肩を竦める。


 サミエムは少しだけ口元を緩め――かけて、止まった。


 ほんの一瞬。


 何かを忘れたような間。


「……?」


 灰崎が眉を寄せる。


 だがサミエムは何事もなかったように前を向いた。


「水分は取っとけ。倒れたら運ぶ余裕はない」


「ああ」


 そこで会話が終わる。


 以前ならもう少し続いていた。


 どうでもいい雑談とか、諜報員への茶化しとか、そういうものが。


 今は必要最低限しか喋らない。


 灰崎は小さく息を吐いた。


 嫉妬帝戦。


 あの時から何かがおかしい。


 サミエムだけじゃない。


 自分もだ。


 敗北の感触がまだ抜けていない。


 思い出すだけで胃が重くなる。


 圧倒的だった。


 読み負けたとか、策で負けたとか、そんな段階じゃない。


 自分たちは掌の上で転がされていた。


 もしあの時、嫉妬帝が本気で殺しに来ていたなら、今頃ここには誰も立っていない。


「……くそ」


 無意識に漏れた悪態。


 その時だった。


 先頭を歩いていた諜報員が片手を上げる。


「止まれ」


 全員が足を止めた。


 空気が変わる。


 灰崎も自然と腰の短剣に手を添えた。


「何かいるのか?」


「いや……」


 先頭の男が周囲を見回す。


「静かすぎる」


 言われて気付く。


 さっきまで聞こえていた虫の羽音が消えていた。


 獣の鳴き声もない。


 風すら吹いていない。


 森そのものが息を潜めているみたいだった。


「……嫌な感じだな」


 誰かが呟く。


 その瞬間。


 ズンッ。


 遠くで地面が揺れた。


 全員が反射的に身構える。


 だが次の揺れは来ない。


「地震か?」


「いや……」


 諜報員の一人がしゃがみ込み、地面に触れる。


「振動が妙だ。一定じゃない」


「一定じゃない?」


「……歩いてるみたいだった」


 その言葉に空気が張る。


 灰崎は森の奥を見た。


 暗い。


 何も見えない。


 だが確かに、何か巨大なものが動いた気配だけが残っていた。


 サミエムが静かに口を開く。


「記録」


「ああ」


 地図係の女が素早く紙を広げる。


 森に入ってからの地形変化を書き込んだものだ。


「変化点を繋げろ」


 サミエムの指示に、彼女は少し迷いながら印を線で結んでいく。


 灰崎も覗き込んだ。


 歪な円になった。


 そして中心部だけ、不自然に空白がある。


「……魔物の遭遇地点も重ねろ」


 さらに線が増える。


 灰崎は目を細めた。


「少ないな」


 中心部だけ、異様に。


 この危険地帯でありえないほど魔物が少ない。


「縄張り争いか?」


 諜報員の一人が言う。


 だが別の男が首を振った。


「違う。少なすぎる」


「何かが追い払ってる……?」


 誰かの呟き。


 灰崎は地図を見ながら、妙な感覚を覚えていた。


 この配置。


 まるで。


「避けてるみたいだな」


 ぽつりと漏らす。


 サミエムが視線を向けた。


「何をだ」


「分かんねえ。でも……中心に近づかないようにしてる感じがする」


 数秒、沈黙。


 やがてサミエムは小さく頷いた。


「可能性はある」


 諜報員たちが顔を見合わせる。


 灰崎は少し意外だった。


 以前ならサミエムは、証拠の薄い感覚論を切り捨てていたはずだ。


 だが今は違う。


 否定しない。


 その代わり、妙に静かだ。


 サミエムは地図から目を離し、森の奥を見た。


「……行くか」


 短い言葉。


 誰も反対しない。


 隊列が再び動き始める。


 だが先ほどまでとは空気が違った。


 全員、森の奥を意識している。


 何かがいる。


 それだけは確かだった。


 灰崎は歩きながら、ちらりとサミエムを見る。


 無表情。


 だがその横顔は、どこか張り詰めて見えた。


 そして灰崎は知らなかった。


 この森のさらに奥で、自分たちを見下ろす“眼”があることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。