【怠惰の章】大森林再び
森が呼吸していた。
熱を孕んだ湿った空気が、肺の奥にじっとりと張り付く。枝葉は幾重にも空を覆い、昼間だというのに薄暗い。木漏れ日だけが斑に地面を照らしていた。
灰崎は額の汗を拭い、深く息を吐く。
「……暑っ」
思わず漏れた声に、前を歩いていた諜報員が肩越しに笑った。
「まだ入口付近だ。奥はもっと酷いぞ」
「冗談だろ」
「残念ながら事実だ」
軽口を返しながらも、その男の顔には疲労が滲んでいた。
強欲帝直属諜報部隊。
各地の戦場や未開地を潜り抜けてきた精鋭だ。普通の騎士なら半日で音を上げる環境でも、この連中は黙って歩き続ける。
それでも疲れている。
それほど、この大森林は異常だった。
灰崎は周囲を見回した。
巨木、巨木、また巨木。
幹の太さは家ほどあり、根は蛇のように地面を這っている。視界の先には巨大なシダ植物が広がり、どこからか聞こえる魔物の唸り声が森全体を震わせていた。
幻の理想郷ユグドラシル。
怠惰帝が統べるとされる伝承の国。
移動する大樹に妖精が導く時、その地は姿を現す――そんな曖昧な話しか残っていない。
そして問題なのが。
「……全部デカい木じゃねえか」
灰崎がぼやく。
横を歩いていたサミエムが視線だけ向けた。
「伝承通りではある」
「目印になってねえって言ってんだよ」
「まあな」
短く返す。
その声音は昔と変わらないようで、少し違った。
サミエムは元々、静かな男ではあった。だが最近は妙に“薄い”。
感情が抜け落ちているというほどじゃない。
ただ、以前ならあった余熱のようなものが減っている。
嫉妬帝との戦いから特に。
あの敗北以降だ。
灰崎は前を向きながら言う。
「……疲れてねえのかよ」
「疲れてるさ」
意外なほど普通の返答だった。
「ならもっと辛そうにしろよ。こっちだけ損してる気分になる」
「お前が顔に出すぎなんだ」
「悪かったな」
灰崎が肩を竦める。
サミエムは少しだけ口元を緩め――かけて、止まった。
ほんの一瞬。
何かを忘れたような間。
「……?」
灰崎が眉を寄せる。
だがサミエムは何事もなかったように前を向いた。
「水分は取っとけ。倒れたら運ぶ余裕はない」
「ああ」
そこで会話が終わる。
以前ならもう少し続いていた。
どうでもいい雑談とか、諜報員への茶化しとか、そういうものが。
今は必要最低限しか喋らない。
灰崎は小さく息を吐いた。
嫉妬帝戦。
あの時から何かがおかしい。
サミエムだけじゃない。
自分もだ。
敗北の感触がまだ抜けていない。
思い出すだけで胃が重くなる。
圧倒的だった。
読み負けたとか、策で負けたとか、そんな段階じゃない。
自分たちは掌の上で転がされていた。
もしあの時、嫉妬帝が本気で殺しに来ていたなら、今頃ここには誰も立っていない。
「……くそ」
無意識に漏れた悪態。
その時だった。
先頭を歩いていた諜報員が片手を上げる。
「止まれ」
全員が足を止めた。
空気が変わる。
灰崎も自然と腰の短剣に手を添えた。
「何かいるのか?」
「いや……」
先頭の男が周囲を見回す。
「静かすぎる」
言われて気付く。
さっきまで聞こえていた虫の羽音が消えていた。
獣の鳴き声もない。
風すら吹いていない。
森そのものが息を潜めているみたいだった。
「……嫌な感じだな」
誰かが呟く。
その瞬間。
ズンッ。
遠くで地面が揺れた。
全員が反射的に身構える。
だが次の揺れは来ない。
「地震か?」
「いや……」
諜報員の一人がしゃがみ込み、地面に触れる。
「振動が妙だ。一定じゃない」
「一定じゃない?」
「……歩いてるみたいだった」
その言葉に空気が張る。
灰崎は森の奥を見た。
暗い。
何も見えない。
だが確かに、何か巨大なものが動いた気配だけが残っていた。
サミエムが静かに口を開く。
「記録」
「ああ」
地図係の女が素早く紙を広げる。
森に入ってからの地形変化を書き込んだものだ。
「変化点を繋げろ」
サミエムの指示に、彼女は少し迷いながら印を線で結んでいく。
灰崎も覗き込んだ。
歪な円になった。
そして中心部だけ、不自然に空白がある。
「……魔物の遭遇地点も重ねろ」
さらに線が増える。
灰崎は目を細めた。
「少ないな」
中心部だけ、異様に。
この危険地帯でありえないほど魔物が少ない。
「縄張り争いか?」
諜報員の一人が言う。
だが別の男が首を振った。
「違う。少なすぎる」
「何かが追い払ってる……?」
誰かの呟き。
灰崎は地図を見ながら、妙な感覚を覚えていた。
この配置。
まるで。
「避けてるみたいだな」
ぽつりと漏らす。
サミエムが視線を向けた。
「何をだ」
「分かんねえ。でも……中心に近づかないようにしてる感じがする」
数秒、沈黙。
やがてサミエムは小さく頷いた。
「可能性はある」
諜報員たちが顔を見合わせる。
灰崎は少し意外だった。
以前ならサミエムは、証拠の薄い感覚論を切り捨てていたはずだ。
だが今は違う。
否定しない。
その代わり、妙に静かだ。
サミエムは地図から目を離し、森の奥を見た。
「……行くか」
短い言葉。
誰も反対しない。
隊列が再び動き始める。
だが先ほどまでとは空気が違った。
全員、森の奥を意識している。
何かがいる。
それだけは確かだった。
灰崎は歩きながら、ちらりとサミエムを見る。
無表情。
だがその横顔は、どこか張り詰めて見えた。
そして灰崎は知らなかった。
この森のさらに奥で、自分たちを見下ろす“眼”があることを。




