【嫉妬の章】逃走
走る。
息が焼ける。
肺が悲鳴を上げている。
だが、止まらない。
止まれば、終わる。
灰崎は歯を食いしばりながら、前だけを見ていた。
背後は見ない。
見れば、足が止まる。
それが分かっているから。
「……はっ、はっ……!」
隣を走るサミエムも、限界に近い。
それでも、神器を抱えている。
怠惰帝の盾。
歪な光を放つそれを、落とさないように強く握りしめている。
「落とすなよ……それ……!」
灰崎が言う。
「分かってる……!」
短い返事。
余裕はない。
だが、その声には意地があった。
絶対に手放さないという意思。
それだけが、二人を繋いでいる。
(……ヘリオ)
脳裏に浮かぶ。
最後の姿。
胸を貫かれながら。
それでも立ち続けていた男。
振り払う。
今は考えるな。
考えれば、止まる。
止まれば、死ぬ。
だから――走る。
街路に飛び込む。
石畳。
先ほどの戦場とは違う、人工的な地形。
だが、そこにも危険はある。
「――止まれ!」
声。
前方。
巡回の騎士。
数名。
完全武装。
こちらに気づいた。
「ちっ……!」
サミエムが舌打ちする。
だが、速度は落とさない。
むしろ、加速する。
「強行突破だ!」
灰崎が即座に判断する。
止まる選択肢はない。
戦う余力もない。
だが、道は開けるしかない。
灰崎が魔力を絞る。
魂術。
不安定な顕現。
小型の魔獣を、前方へ。
数体。
同時に。
騎士たちの視界へ放り込む。
「なっ――!?」
一瞬の混乱。
それでいい。
「今だ!」
サミエムが踏み込む。
剣が閃く。
炎と雷。
最小限。
だが十分。
一撃で武器を弾き、体勢を崩す。
殺さない。
時間を稼ぐだけ。
その隙に、すり抜ける。
走る。
また走る。
背後で怒号が上がる。
だが、振り返らない。
路地へ飛び込む。
狭い。
暗い。
湿った空気。
足音が反響する。
「……こっちで合ってんのかよ!」
サミエムが叫ぶ。
「合ってる……はずだ!」
灰崎も確信はない。
だが、諜報員から聞いたルートを辿るしかない。
拠点。
そして。
転送ゲート。
そこに辿り着けば――
(……逃げ切れる)
その一点だけが、希望だった。
だが。
簡単ではない。
角を曲がる。
また騎士。
「くそっ……!」
灰崎が魔獣を放つ。
今度は囮ではない。
足止め。
噛みつかせる。
絡ませる。
だが長くは持たない。
「急げ!」
サミエムが叫ぶ。
さらに奥へ。
路地を抜ける。
開けた場所。
だが、人はいない。
異様な静けさ。
息が荒い。
足が重い。
それでも。
前へ。
進む。
「……見えた」
灰崎が呟く。
その先。
古びた建物。
目立たない。
だが。
間違いない。
諜報員の拠点。
「……やっとかよ……!」
サミエムが笑う。
だが、その笑いは疲労に滲んでいる。
扉へ駆け寄る。
押し開ける。
中へ。
暗い室内。
埃の匂い。
だが、その奥。
淡く光る空間。
転送ゲート。
「……間に合った……」
灰崎が息を吐く。
その瞬間。
膝が崩れそうになる。
だが、踏みとどまる。
まだ終わっていない。
「早く行くぞ……!」
サミエムが言う。
二人で、ゲートへ向かう。
光が揺れる。
あと一歩。
その時。
外から。
足音。
複数。
近い。
「……来たか」
灰崎が低く言う。
だが、もう関係ない。
あと一歩で――
逃げ切れる。
そう思ったまま。
二人は、光へと踏み込んだ。




