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【嫉妬の章】退くための前進

 走る。




 ただひたすらに。




 だが、それは先ほどまでの撤退とは違っていた。




 逃げているのに。




 追われているのに。




 確かに――前へ進んでいる。




「止まるな!」




 灰崎が叫ぶ。




 声に、芯がある。




 さっきまでの“生き延びるため”の撤退ではない。




 明確な目的地。




 勝つための地点。




 そこへ向かっている。




 ヘリオが先頭を走る。




 その動きは無駄がない。地形を読み、最短で、かつ最も安全なルートを選び続けている。




「右だ! そこは沈む!」




 叫ぶ。




 サミエムが即座に反応する。




「了解!」




 進路を変える。




 湿った地面。




 踏み抜けば足を取られる場所。




 それを避けながら、速度を落とさない。




 背後から――来る。




 圧。




 空気が歪む。




「来るぞ!」




 灰崎が振り返る。




 九尾。




 巨大な影が、迫る。




 尾がうねる。




 一本。




 振られる。




「散開!」




 ヘリオの指示。




 全員が左右に跳ぶ。




 次の瞬間、地面が抉れる。




 さっきまでいた場所が、消える。




「……っ!」




 着地。




 すぐに走る。




 止まらない。




 止まれば終わる。




 だが、違う。




 今はただの逃走じゃない。




(……進んでる)




 灰崎は確信する。




 距離が縮まっている。




 目的地へ。




 確実に。




 サミエムが隣に並ぶ。




「おい、まだかよ!」




 息は荒いが、目は死んでいない。




 ヘリオが前を見たまま答える。




「まだだ」




「ざけんな!」




「だが、近い」




 その一言で、空気が変わる。




 “近い”。




 それだけで、足が動く。




 さらに一歩。




 さらに一歩。




 進む。




 九尾が吠える。




 苛立ちが混じっている。




 距離を詰める。




 逃がさない。




 尾が、連続で振られる。




 左右から。




 上から。




 逃げ場を潰すように。




「くそっ……!」




 灰崎が魔力を絞る。




 不完全な顕現。




 小さな魔獣を前方に出す。




 盾代わり。




 瞬間的に。




 衝撃を受け止め、砕ける。




 その一瞬で回避。




 転がる。




 立つ。




 走る。




 繰り返す。




 サミエムも同様だ。




 炎と雷を纏い、衝撃を逸らす。




 完全には防げない。




 だが、致命を避ける。




 それでいい。




 今は。




 進むことが全て。




「……見えた」




 ヘリオが呟く。




 その言葉に、全員の視線が前へ向く。




 丘。




 わずかに高くなった地形。




 周囲よりも乾いた地面。




 開けた場所。




 何もないように見える。




 だが――




(……あそこか)




 灰崎は直感する。




 あそこに、“何か”がある。




 ヘリオの策。




 勝つための布石。




 サミエムが笑う。




「やっとかよ……!」




 だが、その瞬間。




 空気が裂けた。




「――っ!」




 灰崎の身体が、弾かれる。




 完全には避けきれない。




 尾の一撃が、身体をかすめる。




 衝撃。




 バランスを崩す。




 足がもつれる。




 視界が傾く。




(……やばい)




 倒れる。




 その一瞬。




 致命になる。




 九尾が迫る。




 距離が、ゼロになる。




 巨大な影が、覆いかぶさる。




 尾が、振り上げられる。




 終わる。




 そう思った、その時。




「――止まるな!!」




 ヘリオの声。




 鋭い。




 命令。




 灰崎は、無理やり身体を起こす。




 足に力を込める。




 踏み出す。




 転びながらでも。




 前へ。




 その一歩。




 たった一歩。




 だが。




 それが。




 境界だった。




 足が、地面を踏む。




 乾いた感触。




 柔らかくない。




 沈まない。




 安定した足場。




 丘の上。




 目的地。




 その瞬間。




 九尾の動きが、わずかに遅れた。




 ほんの一瞬。




 だが、確実に。




「……来たな」




 ヘリオが、振り返る。




 口元に、確かな笑み。




 灰崎も理解する。




(……ここだ)




 ここが。




 終わりの場所。




 逃げ切ったのではない。




 辿り着いたのだ。




 勝つための地点へ。




 九尾が、踏み込む。




 丘へ。




 その一歩が。




 何を引き起こすのかも知らずに。




 戦いは、決着の瞬間へと踏み込む。

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