【嫉妬の章】遅れてきた切り札
撤退は、戦いよりも難しい。
それを、嫌というほど思い知らされていた。
九尾が一度動くたびに、戦場が削られる。逃げるための道が消え、遮蔽物が砕かれ、足場が崩れる。
「走れ! 止まるな!」
灰崎が叫ぶ。
だが、全員が全員、同じ速度で動けるわけではない。負傷者もいる。魔力を使い果たした者もいる。
そして――
「うわあああああ!!」
悲鳴。
振り返るまでもない。
尾が、振られたのだ。
一人、また一人と。
弾き飛ばされる。
潰される。
血が、舞う。
砂ぼこりと混ざり、視界を濁す。
「……クソッ!」
サミエムが歯を食いしばる。
助けに戻りたい。
だが、それをやれば全員が止まる。
止まれば終わる。
分かっている。
分かっているからこそ、前に進むしかない。
それでも。
背後から聞こえる音が、耳にこびりつく。
砕ける音。
潰れる音。
途切れる声。
「……っ!」
灰崎は振り返らない。
振り返った瞬間、足が止まると分かっているからだ。
(……今は切り捨てろ)
冷酷な判断。
だが、それが最善。
全員は救えない。
ならば、残れる者だけでも。
生きて帰る。
そのために。
走る。
だが。
それでも。
終わりは追いついてくる。
空気が歪む。
嫌な予感が、背筋を走る。
「……来るぞ!」
灰崎が叫ぶ。
遅い。
九尾の一撃が、すでに振り下ろされている。
逃げ場はない。
間に合わない。
(……ここまでか)
思考が、静かに落ちる。
その瞬間。
――衝撃が弾けた。
だが。
それは、九尾の攻撃ではなかった。
「――遅れて悪いな!」
声が響く。
聞き慣れた声。
次の瞬間、灰崎の目の前で、九尾の一撃が弾き飛ばされた。
真正面から。
叩き返された。
「……は?」
サミエムが振り返る。
灰崎も、目を見開く。
そこに立っていたのは――
「待たせたな」
ヘリオ。
無傷ではない。
だが、その目は死んでいない。
むしろ。
今までで一番、冴えている。
「お前……!」
サミエムの声に、驚きと安堵が混ざる。
ヘリオは軽く肩を回す。
「悪い、ちょっと時間がかかった」
その言葉とは裏腹に、呼吸は乱れていない。
準備を終えた顔だ。
灰崎が短く問う。
「……何しに来た」
ヘリオが、口元を歪める。
「決まってるだろ」
一歩前に出る。
九尾と対峙する。
圧がぶつかる。
だが、退かない。
「勝つためだ」
その言葉は、断言だった。
九尾が動く。
尾が振られる。
先ほどまでなら、触れた瞬間に吹き飛ばされていた一撃。
だが――
ヘリオは、動く。
炎。
風。
雷。
複数の属性が同時に重なる。
エンチャント。
それも一つではない。
重ね掛け。
精密に。
完璧に。
制御された複合強化。
拳を振るう。
衝突。
そして――
弾く。
真正面から。
「……なに?」
九尾の声が、揺れる。
初めての反応。
理解できないものへの困惑。
サミエムが目を見開く。
「……おい、今の……」
灰崎も理解する。
今のはただの力押しではない。
計算されている。
属性の重ね方。
衝突のタイミング。
反射の逆利用。
すべてが噛み合っている。
ヘリオが振り返る。
「時間がない、聞け」
短く、鋭く。
「必勝の策を用意した」
その一言で、空気が変わる。
絶望に傾いていた流れが、止まる。
灰崎が目を細める。
「……本気か?」
「本気だ」
即答。
迷いがない。
「このままじゃ勝てないのは分かってるだろ」
「ああ」
「だから、壊す」
何を、とは言わない。
だが分かる。
この絶対防御。
この九尾。
この帝王。
全部。
「そのための準備は終わってる」
ヘリオが前を向く。
九尾が、再び唸る。
圧が増す。
だが。
もう違う。
ただ逃げるだけの戦いじゃない。
灰崎は息を吐く。
(……来たな)
ようやく。
この戦いの“答え”が。
サミエムが笑う。
「遅えんだよ、マジで」
だが、その顔には余裕が戻っていた。
「で、どうすんだよ?」
ヘリオが、わずかに笑う。
「簡単だ」
一歩踏み出す。
九尾へ。
「全部、剥がす」
その言葉と同時に。
戦場が、再び動き出す。
絶望の先に。
逆転の一手が、放たれようとしていた。




