【嫉妬の章】奪われる側から奪う側へ
限界は、とうに越えていた。
呼吸は浅く、視界は霞む。魔力はほとんど残っていない。それでも灰崎は立っていた。倒れた瞬間に終わると分かっているからだ。
目の前では、ヴェルディアが静かに構えている。先ほどまでの余裕は薄れ、代わりに“狩る側”の冷静さが前面に出ていた。
「いいね、さっきのはちょっと驚いた」
淡々とした声。しかしその奥にあるのは評価ではない。分析だ。どうすれば確実に殺せるか、その思考。
「でもさ」
一歩、踏み出す。
「もう終わりでしょ」
その瞬間、灰崎の周囲に残っていた魔獣の気配が一斉に揺らいだ。
違和感。
いや――異常。
「……っ?」
次の瞬間、魔獣の一体が崩れた。霧のように散るのではない。何かに“引き抜かれる”ように消える。
「なっ……!」
続けて、もう一体。さらにもう一体。
奪われている。
存在そのものを。
「それ、便利だよね」
ヴェルディアが軽く言う。
「借り物の力でも、ちゃんと使えてる。でもさ」
指先が、わずかに動く。
「奪われたら終わりだよね」
完全に消えた。
魔獣たちの気配が、跡形もなく消失する。
灰崎の背後にあった“数”が、ゼロになる。
戦況が、傾く。
いや。
崩壊した。
「……っ、クソ……!」
歯を食いしばる。残る手札はほとんどない。顕現は不安定。魔力は枯渇寸前。毒は回り続けている。
対してヴェルディアは、ほぼ無傷。
そして――
確実に詰めてくる。
一歩。
また一歩。
距離を詰める。
無理に攻めてこない。隙を晒さない。逃がさない。
堅実に。
確実に。
殺しに来る。
(……詰んでる)
思考が、冷静に結論を出す。
このままでは勝てない。
なら。
選択肢は一つしかない。
(……賭けるしかねえ)
灰崎は、息を吐いた。
そして、意識を深く沈める。
呼ぶ。
あの時の存在。
あの戦場で。
あの狂気の中で。
出会った――
「……来い」
低く、しかし強く。
「ガルド・ヴェルガ」
空気が変わる。
重く。
荒々しく。
圧が、満ちる。
次の瞬間。
背後に“それ”が現れた。
巨大な影。
狼の姿。
だが、それ以上に濃いのは――戦意。
純粋な闘争心。
湿地将軍、ガルド・ヴェルガ。
「……はは」
ヴェルディアが笑う。
「それは、ちょっと面白い」
ガルドが唸る。
地面が震える。
次の瞬間、踏み込んだ。
速い。
先ほどまでの魔獣とは比べ物にならない速度と圧力。
不可視の壁に叩きつけられる。
――だが。
押し込む。
「……っ!」
ヴェルディアの動きが、変わる。
防御が揺れる。
完全ではない。
力が拮抗する。
ガルドは止まらない。
さらに踏み込む。
牙が迫る。
ヴェルディアが後退する。
初めての、明確な押し返し。
(……通る!)
灰崎が動く。
この一瞬しかない。
ガルドが抑え、壁が揺らぐ。その間に奪う。
踏み込む。
腕を伸ばす。
解毒薬へ――
「――甘い」
その声と同時に、空気が裂けた。
ガルドの動きが、止まる。
いや。
“奪われた”。
「……っ!?」
ガルドの存在が揺らぐ。濃密だった戦意が、一瞬で薄れる。
ヴェルディアの手には、短剣があった。
見えなかった。
いつ抜いたのか。
だが、その刃が触れた瞬間、ガルドの力が削がれている。
「いいね、それ」
ヴェルディアが笑う。
「強いよ。でもさ――」
一歩踏み込む。
「僕の方が上」
ガルドが崩れる。
顕現が維持できない。
消える。
完全に。
だが。
その瞬間。
ほんの一瞬。
防御が、緩んだ。
(……今だ)
灰崎の体が勝手に動いた。
思考ではない。
本能。
手を伸ばす。
掴む。
感触。
確かな重み。
小瓶。
解毒薬。
「――っ、取った……!」
奪取成功。
次の瞬間、空気が凍りつく。
「……へえ」
ヴェルディアの声が、低くなる。
今までとは違う。
明確な感情。
怒り。
「やるじゃん」
ゆっくりと、顔を上げる。
ガスマスク越しでも分かる。
視線が変わった。
完全に“敵”として認識された。
「じゃあ――」
一歩。
圧が跳ね上がる。
「殺すね」
速い。
今までとは比較にならない速度。
灰崎の反応が遅れる。
(……やべえ)
避けられない。
終わる。
その瞬間。
――轟音。
壁が、吹き飛んだ。
石が砕け、粉塵が舞う。
強引に、無理やり。
外側から破壊された。
「……は?」
ヴェルディアがわずかに動きを止める。
その隙間を縫うように――
「遅えんだよ、バカ野郎!」
声が響いた。
聞き慣れた声。
次の瞬間、影が飛び込んでくる。
サミエム。
雷と炎を纏いながら、一直線に突っ込んでくる。
「一人でカッコつけてんじゃねえ!」
拳が、振り抜かれる。
空気が爆ぜる。
戦場が、再び動き出す。
灰崎は、息を吐いた。
まだ終わっていない。
だが。
一人じゃない。
それだけで、戦いは変わる。




