【嫉妬の章】数で覆す歪み
灰崎は踏み込んだ。
一直線に、ヴェルディアへ向かう。狙いは明確だった。解毒薬。それ以外は全て後回しでいい。
だが、距離が詰まる前に見えない壁が立ちはだかる。先ほど魔獣たちを弾いたそれと同じものだ。空間そのものが拒絶しているかのような感触。手応えはないのに、確実に止められる。
灰崎はすぐに踏み込みを止めた。無理に押し通ろうとすれば、その瞬間に隙を晒す。
「正面から来るんだ」
ヴェルディアがくすりと笑う。「単純だね。でも嫌いじゃないよ、そういうの」
その余裕。だが、灰崎はそこに違和感を覚えていた。
こいつは、常に“自分が優位な状況”を作っている。毒、空間、不可視の防御。すべてが準備されたものだ。ならば、その裏にある“前提”があるはずだ。
考えろ。
さっきの戦闘。魔獣を複数ぶつけた時の挙動。確かに全て弾かれた。だが――
(……全部同時だったか?)
記憶を辿る。あの時、魔獣は一斉に突っ込んだ。だが、弾かれる瞬間に“ズレ”があった。ほんの一瞬。わずかな遅れ。
完全な全方位防御ではない。
処理している。
個別に。
(……多対一が苦手か)
仮説が立つ。
帝王。神器持ち。それでも完璧ではない。むしろ強大だからこそ、扱いきれない領域がある。
ならば。
やることは一つだ。
「……来い」
灰崎は低く呟いた。
再び、意識を外へと広げる。魔力は削られている。毒も回っている。それでも、構わない。ここで躊躇えば終わる。
呼ぶ。
縛る。
引きずり込む。
複数の気配が応じる。さっきよりも多い。無理やり引き上げるように、存在を顕現させる。
だが――
「……っ」
揺れる。形が定まらない。顕現が不安定だ。完全な形を維持できない。半ば霧のような、歪んだ魔獣が現れる。
「それ、まともに使えるの?」
ヴェルディアが楽しそうに言う。
灰崎は答えない。
使えるかどうかじゃない。
使うしかない。
「行け」
命令と同時に、魔獣たちが動く。足取りは重く、動きも鈍い。それでも数だけはいる。三体、四体、五体――次々と不完全な存在がヴェルディアへと殺到する。
最初の一体が弾かれる。
次も。
その次も。
だが――
「……」
ヴェルディアの動きが、わずかに速くなる。
処理している。
一体ずつ。
確実に。
だが、追いついていない。
灰崎はさらに魔力を絞り出す。
「まだだ……来い!」
追加で二体。三体。限界に近い。視界が揺れる。呼吸が乱れる。それでも止めない。
数で押す。
質がダメなら量で覆す。
「……っ、しつこいな」
ヴェルディアの声に、初めてわずかな苛立ちが混じる。
弾く。弾く。弾く。
だが、同時に複数方向から来られると、対応が遅れる。
一体が、ほんのわずかに“内側”へ入り込んだ。
「――!」
その瞬間、ヴェルディアが大きく後退する。
初めての明確な回避。
防御しきれなかった証拠。
灰崎の目が鋭くなる。
(……当たる)
完全じゃない。
なら、突破できる。
「いいね」
ヴェルディアが低く笑う。「そういうの、嫌いじゃない」
だが、その笑みは先ほどまでと違う。余裕の中に、警戒が混じっている。
灰崎はさらに踏み込む。
魔獣を前に出し、自身は後ろから距離を詰める。壁の処理に意識を割かせる。その隙を狙う。
狙いは一つ。
解毒薬。
ヴェルディアの手元。
それだけを見ている。
魔獣が一体、内側へ潜り込む。ヴェルディアがそれを弾く。その瞬間、別方向からもう一体が入り込む。
「チッ……!」
初めての舌打ち。
防御が乱れる。
灰崎はその一瞬を逃さない。
踏み込む。
腕を伸ばす。
あと少しで届く――
その時。
「……やっぱり、そう来るよね」
ヴェルディアの声が、妙に静かだった。
次の瞬間、空気が変わる。
圧が一段階、上がる。
魔獣たちが一斉に弾かれる。今までとは違う、強制的な排除。まるで空間そのものが押し返してきたかのような力。
灰崎も巻き込まれ、後方へ弾き飛ばされる。
「……っ!」
地面を転がりながら、なんとか受け身を取る。肺から空気が抜ける。視界が白くなる。
だが、すぐに顔を上げる。
ヴェルディアは、そこにいた。
変わらず、解毒薬を手に持ったまま。
「面白いよ」
ガスマスク越しに、確かに笑っている。
「でもさ、限界でしょ」
その言葉は、事実だった。
魔力はほぼ空に近い。毒も回っている。顕現も維持できない。今の一撃で、ほとんどの魔獣は消えた。
それでも。
灰崎は立ち上がる。
足は震えている。視界も揺れている。だが、目だけは死んでいない。
(……まだだ)
完全に崩されたわけじゃない。
通る瞬間はあった。
防げない瞬間があった。
つまり。
まだ、奪える。
ヴェルディアがわずかに首を傾ける。
「まだ来るの?」
その問いに、灰崎は答えない。
代わりに、ゆっくりと構える。
もう一度。
もう一度だけでもいい。
突破口を作る。
そのために。
全てを絞り出す。
戦いは、まだ終わらない。




