【嫉妬の章】奪うべきもの
肺の奥に、重たい違和感が残っていた。外に出たはずなのに、呼吸は軽くならない。むしろ一呼吸ごとに、じわじわと体の奥が侵されていく感覚が強くなる。遅効性の毒は確実に回り始めていた。
目の前には、ガスマスクをつけた男――嫉妬帝ヴェルディアが立っている。顔は見えないが、その佇まいから滲む感情ははっきりと感じ取れた。楽しんでいる。目の前の状況そのものを。
「いい顔してるね」
軽い声だった。まるで世間話でもするかのように、穏やかで、しかし底の奥で歪んでいる。
「必死でさ。そういうの、羨ましい」
灰崎は答えない。ただ、視線を逸らさずに構える。魔力は削られている。毒も回っている。この状況でまともに戦えるはずがない。それでも退くという選択肢は存在しなかった。
「……顕現」
低く呟いた瞬間、背後の空気が揺らぐ。魂術。内に抱えた感情を媒介にして存在を引き出す術。しかし、現れかけた“影”は不安定に揺れ、形を保てない。
「……っ、チッ……!」
舌打ちが漏れる。制御が効かない。焦りと苛立ちが混ざり、感情が散っている。本来、魂術は極まった一点の感情で発動するものだ。今の状態では成立そのものが不完全だった。
「はは、不安定だね」
ヴェルディアは一歩踏み出し、軽く指を動かす。その瞬間、見えない衝撃が走り、顕現しかけた影が霧散した。何かに弾かれた。明確な防御。だが、その正体は見えない。
「それじゃあ届かないよ」
余裕の声音。灰崎は後退し、すぐに体勢を立て直す。視線を走らせる。敵の周囲には明らかに“何か”がある。触れれば弾かれる不可視の壁。だが詳細は分からない。情報がない以上、正面突破は危険すぎる。
ならば別の手段だ。
「……来い」
意識を外へ広げる。周囲の気配を探る。街の外縁に近いこの位置なら、まだ魔獣がいる。無理やり意識を繋ぎ、引き寄せる。魂を縛り、従わせる。
苦しい。だが、応じる気配があった。
数体の魔獣が姿を現す。牙を剥き、唸り声を上げる存在たち。灰崎の命令に従い、一斉にヴェルディアへと飛びかかる。
だが、その動きは途中で止まった。
「……は?」
見えない壁に触れた瞬間、全ての魔獣が弾かれる。攻撃は一切届かない。まるで存在そのものを拒絶されているかのように。
ヴェルディアは楽しそうにその様子を眺めていた。
「いいね、数で来るんだ。でもさ――意味ないよ」
手元をわずかに動かす。その仕草だけで、完全に防がれている。やはり何かがある。神器か、それに準ずる能力か。だが現状では正体が掴めない。
そのとき、ヴェルディアはポケットに手を入れた。
「ねえ、これ欲しい?」
取り出したのは小さなガラス瓶だった。中には透明な液体が揺れている。
「解毒薬」
その一言で、全てが決まった。
呼吸がさらに重くなる。体の奥で毒が広がっているのが分かる。このままでは時間の問題だ。そしてそれは灰崎一人の問題ではない。外へ出たサミエムや諜報員たちも同じ毒に侵されている。もしこの毒が感染性を持つなら、街全体に広がる可能性すらある。
つまり、あの瓶はただの解毒薬ではない。
全てを止めるための鍵だ。
「いいでしょ」
ヴェルディアは瓶を軽く揺らしながら言う。
「欲しいものがあるってさ、頑張れる理由になる」
歪んだ理屈。しかし今の灰崎にとっては、それが唯一の“目的”になった。
奪う。
それだけでいい。
焦りも、恐怖も、全て削ぎ落ちる。残ったのは一点の意思だけだった。
背後で、再び影が揺らぐ。先ほどとは違う。まだ不安定だが、芯が通り始めている。感情が収束している証拠だった。
ヴェルディアがわずかに目を細める。
「へえ、変わったね」
興味深そうに観察するその視線を、灰崎は真正面から受け止める。
「いいよ。取ってみなよ」
完全な挑発。だが、それでいい。
狙いは一つしかない。
解毒薬。
それを奪う。
そのために、全てを使う。
灰崎は一歩踏み出した。迷いはない。限界の中で、それでも前へ進むしかないと理解しているからだ。
空気が張り詰める。不可視の防御、削られ続ける魔力、回り続ける毒。その全てが足枷となる中で、それでも一歩を踏み出す。
ここからが本当の戦いだった。




