【嫉妬の章】閉ざされた外
通路は、狭かった。
石造り。
湿った空気。
だが――
“外”だ。
さっきまでの異様な空間とは違う。
それだけで、十分だった。
「……はぁ、っ……」
サミエムが壁に手をつく。
呼吸が荒い。
諜報員の二人も、明らかに限界が近い。
毒。
遅効性。
だが、確実に体を蝕んでいる。
「……追ってこねえな」
サミエムが呟く。
確かに。
あれだけの空間。
あの性格。
普通なら、追ってくる。
だが。
来ない。
足音も。
気配も。
何もない。
灰崎は、前を見たまま言う。
「……来ない理由がある」
短く。
だが、それ以上は言わない。
言語化できていない。
ただ。
嫌な予感だけが、残る。
通路は、やがて分岐する。
右。
左。
さらに奥。
「……迷路かよ」
サミエムが舌打ちする。
視界が、揺れる。
毒の影響。
足元がおぼつかない。
思考も、鈍る。
「クソ……頭、回んねえ……」
諜報員の男が、壁に寄りかかる。
「ここで止まったら……終わりだ」
誰も反論しない。
事実だからだ。
進まなければ。
死ぬ。
灰崎は、壁に手を触れる。
冷たい。
だが。
わずかに、違う。
(……構造)
建物の作り。
さっきの空間。
位置関係。
頭の中で、繋ぐ。
ここは。
“中心部の下層”。
なら。
「……右だ」
即断。
サミエムが顔を上げる。
「根拠は?」
「構造的に、外周に繋がる」
短く。
完全な確証はない。
だが。
時間はない。
「……外れたら死ぬぞ」
「止まっても死ぬ」
沈黙。
サミエムが笑う。
「はっ、違いねえ」
進む。
右へ。
通路は続く。
曲がる。
下る。
何度も。
そのたびに、判断を迫られる。
だが。
灰崎は迷わない。
構造。
風の流れ。
わずかな光。
全てを拾う。
そして。
やがて。
光が見えた。
「……出口だ」
サミエムが呟く。
半信半疑。
だが。
確かに。
外の光。
扉。
灰崎が手をかける。
一瞬だけ。
躊躇。
だが。
開ける。
光が差し込む。
空気が変わる。
外。
青空。
シレヴァルトの街並み。
「……っはぁ……!」
サミエムが大きく息を吐く。
諜報員も、崩れ落ちるように外へ出る。
「助かった……」
誰かが、呟く。
安堵。
張り詰めていたものが、ほどける。
だが。
灰崎だけが。
動かなかった。
扉の前で。
立ち止まる。
「……おい?」
サミエムが振り返る。
「どうした」
灰崎は、外を見ている。
街。
人。
変わらない。
あまりにも。
(……簡単すぎる)
違和感。
消えない。
なぜ。
逃げられた?
なぜ。
追ってこない?
なぜ。
“遅効性”の毒?
一つ一つ。
繋がる。
(……もし)
仮定。
だが。
最悪の。
(感染するなら?)
思考が、止まる。
次の瞬間。
「――っ、待て」
声を上げる。
サミエムが振り返る。
「は?」
その瞬間。
――バン。
背後で。
扉が、閉まった。
「……は?」
サミエムの顔が固まる。
灰崎の目が、細くなる。
やはり。
遅かった。
奥から。
足音。
ゆっくりと。
一定のリズムで。
近づいてくる。
そして。
現れた。
男。
顔は見えない。
ガスマスク。
全身を覆う装備。
完全防備。
サミエムが、低く呟く。
「……誰だよ」
男は、止まる。
そして。
ゆっくりと、首を傾ける。
「気づいた?」
その声。
聞いたことがある。
あの空間で。
灰崎が、吐き捨てるように言う。
「……ヴェルディア」
男が、笑う。
ガスマスク越しでも分かる。
歪んだ笑い。
「正解」
一歩、踏み出す。
「遅効性の毒」
一拍。
「いいでしょ」
ゆっくりと。
「逃がせるから」
空気が、凍る。
サミエムの顔が歪む。
「……は?」
「だってさ」
楽しそうに。
「広がる方が、面白いじゃん」
最悪の答え。
感染。
拡散。
街へ。
人へ。
全てへ。
灰崎は、一歩前に出る。
決断は、早い。
「サミエム」
低く言う。
「下がれ」
「は? 何言って――」
「行け」
強い声。
サミエムが、言葉を失う。
理解する。
これは。
“分断”。
そして。
最悪の選択。
だが。
必要な判断。
「……チッ」
歯を食いしばる。
諜報員を支える。
「死ぬなよ」
それだけ言って。
下がる。
距離が開く。
灰崎と。
ヴェルディア。
二人だけ。
静寂。
ヴェルディアが、首を傾ける。
「いいの?」
「一人で」
灰崎は答えない。
ただ。
構える。
視線は外さない。
ヴェルディアが、笑う。
心底楽しそうに。
「いいね」
一歩。
「そういうの」
空気が、張り詰める。
毒。
時間制限。
孤立。
最悪の条件。
だが。
それでも。
灰崎は、動じない。
(……やるしかねえだろ)
静かに。
戦いが、始まる。
“孤独な戦い”が。




